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ラヴェッソンの『習慣論』をChatGPTに要約してもらってみた

はじめに

趣味でラヴェッソンの『習慣論』を読もうとしていて岩波文庫の邦訳を手に入れたのですが、旧仮名遣いや旧漢字遣いが読みづらく感じたので、スマホについているGoogleカメラで文庫のページを撮影して文字起こしし、原本と擦り合わせながら仮名遣いなどを現代のものに書き下した文章を作成しました。
今回はその書き下した文章を最近話題のChatGPTさんに要約してもらいました。
*仕様上本文を一気に全部投げた訳ではなく、私の方で適当な長さに切り取り、ChatGPTに3000字以内で要約するように命令したため、一部「この文章は…」と脈絡が無くなっている部分があることはご容赦ください。

習慣とは、一般的かつ恒常的な存在の仕方であり、獲得された習慣は一つの変化の結果として生じる。しかし、特定の習慣の意味は、獲得された習慣ではなく、変化から生じた習慣である。一度獲得された習慣は、存在者を変化させる限りでの変化ではなく、時間の中に実現される限りでの変化であるため、反復されることで習慣が強化される。習慣を成立させるには、可変性のみでは足りず、内的な素質・潜勢力・能力における変化が必要である。

(Ⅰ)

存在には、自己の存在を維持しようとする傾向がある普遍的な法則があります。存在が現れるための条件は、空間と時間です。空間は安定性や恒常性の形式であり、時間は変化の条件です。存在の基本形式は、運動する延長体であり、惰性という傾向によってその運動を維持します。存在の最初の段階から、恒常性と変化が合一して存在します。ただし、惰性は限定された力ではなく、無限に変動する力です。存在者を構成するためには、何らかの形式で同一性を構成するものが必要であり、複雑な原理によって限定されます。これらの原理は、外的合一から内面的な結合、重力と分子引力から化学的親和性まで、さまざまな形式で存在します。
この文章は、自然界における要素の合一について説明しています。この合一には、機械的、物理的、化学的なものがあり、それぞれ異なる特徴があります。これらの合一は、時間をかけずに直接的に起こります。また、同質的な全体が存在する場合、その中には存在自体はあるものの、統一的な存在者は存在しないため、習慣は存在し得ません。無機物の世界では、習慣は存在できないと結論付けられます。

(Ⅱ)

時間と空間が介在することで、異質的な綜合が同質的ではなくなり、個性が生まれる。有機組織は異質的全体であり、時間における継起的統一が生命を形成する。すべての生物は、変化の中で固有の運命、特殊な本質、不変の本性を持ち、習慣は自然が始まる所で始まる。生命は無機界に優越しているが、無機的存在を自分たちの条件として前提している。有機組織は、無機的世界の中でその質料を持ち、これに形式を与える。
この文章は、生物が自分自身から発する変化を繰り返すと、その変化が生物にとって自然なものになり、習慣が生じると述べています。習慣は、生命の進化にとって自然な方向性を持ち、植物にとってはあまり生じないものの、生物のより高次の形態においても、変化の痕跡が生じることがあると述べています。また、生命が少ない段階である場合、生命の変形はまだ限定的であり、存在者は必然性から解放されず、習慣が生じることが困難であることを指摘しています。

(Ⅲ)

植物の生命よりも高次の動物の生命がある。高次の生命形態はより多様で複雑であり、外部環境から多様な要素を取り込んで自己の体内に取り込むために適切な器官が必要であり、外部環境に対して運動することが必要である。また、外部の刺激に反応し、自己の動きを制御する仕組みが必要である。生命の段階が上がるにつれて、恒常性と変化の関係は多様になり、時間と空間の関係も多様化していく。物体は存在することができるが、時間に対しては特定の関係を持たない。植物は時間と空間に関連した一定の持続性を持ち、動物は非連続的な時間を含む。
動物の生命において、自発性が最も明らかに表れるのは、機能の間欠性においてである。自発性は、動物が自分自身で運動を始める力であり、一旦運動が止まっても再び始まるときには、自分自身で運動を始める力があることが確認される。また、もとの状態に戻るためには、単に持続するだけでなく、さらに多くの力や努力が必要である。動物の生命には、変化の持続という唯一の事実があり、これによって受容性の低下が生じる一方で、周期的な現象が生じる。周期性は自発性の高揚によって生じるものであり、これらの現象はすべて自発性の高揚の結果である。

(Ⅳ)

生物は進化する過程で、存在者は単に部分的に運動するのではなく、全体として空間中に運動するようになります。また、新たな感覚器官が生じ、外部刺激を遠くから感じることができるようになります。この段階に入ると、受容性と自発性の対比がより強く表れます。無機物の世界では、作用と反作用は同一であるが、生命の世界では、外界の作用と生命自身の反作用が次第に異なるものとして現れます。動物が全体として運動し移動するに至ると、受容性と自発性の対立は新たな特質を帯び、感覚器官には稀薄な流体を介して印象が与えられ、動きが広い範囲に及び、複雑になります。存在者が変化を外部から受けるか自ら始めるかによって、変化の持続の影響が相反する二重の法則が現れ、印象は反復されるにつれて力を失い、受容性の低下は超有機的な原因によることが多くなります。一方、運動は感覚器官に与えられる印象に不釣合となっていき、有機体の物質的変化から独立して発展していくようです。
この文章では、作用と反作用が独立し、自由意志を持つ中心が必要であるという考えが示されています。また、裁判官は精神の原理であり、意識によって物事を評価し、習慣を理解することができると述べられています。最後に、自然が意識によって見え方が変わり、我々は自由な活動性を持つ存在者として現れるというアイデアが述べられています。

(Ⅰ)

意識は知識を含み、知識は知性を含む。しかし、単純な対象の直感においては、知識や意識は消失する。知識の対象は観念であり、多様性の知性的統一である。判断は観念の中で多様性を綜合することである。知識は悟性の中にあるが、悟性は自己の条件をもち、知識を支配する。量の質料は多様性であり、量の形式は統一である。悟性が量を把握するには、諸部分の区別が必要であり、数の形式の下でのみ可能である。悟性が数を表象できるのは、一連続量の限界の多数性においてのみである。共存的な連続量は延長であり、空間の直観においてのみ表現可能である。しかし、空間の無限には統一がなく、限定された形式も見つからないため、我々は自己から統一を見出し、それを外部に移し、自己に対立させる。
この文章は、多様性と全体性の関係、時間と空間の役割、そして想像力と意志の役割について論じています。全体性を表象するためには、部分を加えて一まとめにする必要があり、時間によって継起的に加算されます。空間に属するものはすべて時間の外にあるため、時間の中にある同一性と変化の尺度が重要になります。空間の多様性を表現するには、運動による推移が必要であり、運動の目的や方向を表現することも必要です。想像力は判明に理解するための重要な要素であり、意志的活動の意識も含まれます。
この文章は、運動が単なる延長や速度ではなく、強度で表現されることを示しています。強度は、力によって直接量られるものであり、力と抵抗の比率や両者を量る尺度は努力の意識の中に存在します。そして、人格性は、意志的な活動によって表現され、努力の意識によって測定されます。また、運動を起こす活動においては、主観的な要素が存在するため、自己を知ることができます。
この文章では、努力には能動と受動という二つの要素があり、それらが存在のすべての可能な形式を含んでいると説明されています。能動は明晰な知覚と結びつき、判明な認識の条件である一方、受動は不明晰な感覚にほかならず、意識内であっても殆ど区別されないものであると述べられています。努力は、能動と受動、すなわち知覚と感覚のつり合いの場所であり、触覚を通じて実現されます。また、感覚は大抵の場合、感触の形式で支配され、意志的活動の器官においても、麻痺によって運動が消失しても残るものであると述べられています。
この文章は、触覚について述べており、感覚能力がどのように発展するかについて説明しています。文章は、触覚が最初は受動的であるが、能動的になるにつれて、主観的であることと客観的であることのどちらにも関与しなくなり、人格性が消失することを指摘しています。また、味覚や嗅覚のような感覚能力も、客観性と関係がなく、純粋な感覚に近いと述べられています。最後に、努力という中間領域において、人格性の最も明晰な確実な意識が見出されるということが言及されています。
高次の聴覚や視覚においては、知覚は直接的な受容性の道具ではなく、器官の機構と運動を含むようになる。聴覚の運動は耳に伝えられ、視覚の機構は外面的であり、視覚の固有の対象である色彩は運動の中にのみ現れる。意識の範囲を充たしているものは、受動と能動との方向相反しており、意識は知識も能動の中にあり、運動における能動、受動に相対的な能動である。これらは感覚能力の段階の一端から他端に渡り、知覚は常に力を増している。

(Ⅱ)

この文章は、意識の条件は時間の中にあることを説明しています。意識の中にあるすべてのものは、変化を持続させる主体によって持続する変化であり、受動と能動は互いに反比例しています。感覚は長時間続けるか繰り返すことで衰え、運動はより容易に、迅速に、確実になります。能動性は、感覚を明確にし、認識や判断を発展させます。能動性は、快楽と結びついており、持続することで快楽を増やすことができます。
この文章は、感覚や運動において持続的な活動は、能動性を高め、受動性を弱めることを説明しています。また、感覚が長く続くと、それが欲求となり、短くなると不安や不快が生じることが述べられています。さらに、運動において、努力が消え去り能動性が自由で迅速になると、能動性は傾向や傾性となり、意志の指図を待たずに動くことができることが述べられています。最後に、感覚や能動性において、持続的な活動によって、不明瞭な能動性が生まれ、それが能動性においては再生され、感覚においては外的対象の印象に先んずるようになることが述べられています。
この文章は、感覚や知覚における受動的な反応は、主体の現実の状態と刺激の原因の間の反対性に基づいていることを説明しています。感覚や知覚は、同じ印象を繰り返し受けることで、その状態に固執しようとする傾向があり、これによって感覚は弱くなります。また、運動や音響が眠気を引き起こすのは、感覚器官内に不明瞭な能動性が生じるためであり、感覚は欲求に化することがあります。受動性の減衰は、内的能動性の発展によって説明されます。
運動には能動と受動があり、繰り返されると不随意的な運動になるが、その背後には隠れた能動性が生じる。習慣は間接的な影響しか与えず、感覚能力や欲望も真の能動性ではない。繰り返しは感受性を弱め、発動性を強めるが、それは同じ原因であり、その原因は自発性の発展である。
この文章は、感覚が減衰し、運動が容易になることは、器官の変化によるものだという仮説を述べています。しかし、感覚の消失や運動の容易さの増大は、意志や意識の衰退によるものであるとする説明はできないと主張しています。物理的理論や合理主義的理論も誤っていると述べられ、この現象を説明するには、受動的で能動的な自発性の発展が必要であるとしています。

(Ⅲ)

この文章では、運動は習慣になっても知性を失わず、むしろ傾性を生み出し、意志に取って代わると述べられています。この傾性は徐々に形成され、常に意志の立てた目的への傾向であることが認められます。しかし、反省と意志とは、知性が自らに対立する対象であり、傾性が意志に取って代るにつれて、傾性は次第に行動の形式を帯びるようになり、潜勢力から漸次に行動に変わっていきます。この過程で、悟性と運動との間にあった間隔は減少し、区別は消え、思惟の主観と客観との分離の存しない直接的知性が現れます。
この文章は、運動の目的として存在する理想を指し示し、その理想が運動と傾向と合一することで実現されると説明しています。この理想は未だ実現されていないものの可能性であり、運動や習慣によって実体化されます。また、習慣は反省に代わる不明瞭な知性を生み出し、直接的な知性と主観が合一して存在と思考が実在的なものとして合一するという点において、実在的直観であると述べられています。
この文章は、習慣を形成するために、意志と傾向や欲望が結びつくことが必要であり、習慣的な行動が続くことで、傾向や欲望が直感的な運動の器官として形成されると説明しています。また、習慣が意志を支配するためには、微小な段階を経過する必要があり、習慣的行動が中断されると、傾向や欲望もまた緩和されることがあると述べられています。しかし、習慣的な行動から生まれた傾向や欲望は、知性的な活動から離れることはなく、運動の原理は常に同じ力であるが、その力は次第に自分自身の思想の傾向に身を任せていくと述べられています。最後に、習慣は外的な強制ではなく、傾向や欲望による必然性によって生まれるものであり、目的原因が動力原因を支配し併合することで現実に終わりと始まり、事実と法則が必然性の中で一致すると述べられています。
この文章では、行動の連続や反復によって形成された習慣と、人間の本性を構成する原始的な傾向との違い、および習慣と本能との違いについて説明されています。習慣は本能よりも無反省で、自然と本能の間にある共通の限界であるとされています。習慣は自然に対する意志の微小な変化であり、自然と意志との関係を理解するための唯一の方法であると考えられています。習慣は生まれた自然であり、第一の自然を理解するための啓示であるとされています。
この文章は、習慣が人間の行動に与える影響について説明しています。習慣によって、人間の行動は本能的なものに変わり、運動の外的形式や終局点だけでなく、抵抗する中間帯に関する意識も失われます。人間は運動力の行使について意識を持たなくなりますが、努力の量を加減し着力点を選ぶことを学びます。習慣によって、人間の運動器官は特定の行動に慣れ、他の目的を達成することができなくなります。最初の運動力の行使についても、人間は何か不明瞭な理解や意図を持っていましたが、習慣によってそれが再び発現されます。習慣は、意識の諸段階を畳み合わせ、運動を自然的かつ本能的なものにします。
この文章は、意志と努力、抵抗の関係について説明しています。意志は客観的な観念を前提としており、努力には努力なき傾向が先立つ必要があります。意志は不随意的な傾性を前提としており、意志的運動は欲望によって自己の根源と源泉を持っています。運動の意志的部分における意識と意志の低下は、運動全体の意志と意識の諸状態の同時的系列を表しています。最後に、自然と習慣の最後の段階は同じであり、欲望の自発性における直接的な合一を持っています。
この文章は、運動の終局からその初めに戻ることで、多様性の中から運動の活力が生まれることを説明しています。多数の傾向と多様な器官の中で運動が分散することが、習慣の発展の終わりにあると述べています。同様に、第一の自然の中でも、人格の中心的な統一の下で力と知性が分散し、神秘的な状態にあることが示唆されています。
運動活動は、意志から本能までの能力をすべて包含しており、低次の能力は要約されている。これらの能力は、諸々の機能及び器官の変化に富んだ系列に展開される。習慣の力は、本能に深い変容を与え、大いに気質を変える。同様に、運動や境位、食物、空気なども、習慣によって健康の条件に変わる。習慣の考察は、衛生学、診断学、治療の最も大切な要件の一つである。習慣が無に帰するのは、有機組織の最も基本的な機能に至ってのことである。
この文章では、生命の秘密について考察されています。病気や遺伝について、それらが存在と観念の両方である可能性があること、そして生命が愛と創造的な力によって分離して自己を営み、神秘的な相伝を持つことが述べられています。さらに、運動的活動が生命の最高形式であり、低次の形式を包含していることが指摘され、全世界、全自然は連続的な系列を示し、高次と低次の条件や形相が相互に関連していることが示唆されています。
習慣は、自然の諸力の前進的発展を意識の内的生命の中で描き出すものであり、習慣の発展は継時的形式の下に進行する。人間において、習慣の発展は意識から本能へと導き、人格の完成から非人格性の極度の分散へと導く。しかし、空間や運動の条件が消失すると反省や記憶の条件も消失し、生命機能の不随意な機能は本能に化される。習慣は、意志的運動を本能に変えるまで進行する。生命機能の段階的系列における意志と意識の漸次的低下も、反省的悟性及び意志の諸条件の漸次的消滅の表示に外ならない。
この文章は、存在の全体が相互に関連し、同じ原理によって構成された力の連続的な系列であり、生命形式の階層においては一つの力が他の力に包まれ、習慣の進行においては逆の方向に展開されることを示している。この系列には必然性があり、上限は悟性の自由である。習慣は両者の内面的本質と必然的結合を示すために反対者を接近させる。

(Ⅳ)

この文章は、能動と受動は生命的自発性の最高段階として見られるが、精神や心情の高次の領域にも及ぶと主張している。習慣の法則を定め、意識の原型及び第一条件の中に示している。精神が自己意識に到達すると、身体の生から分離し、独自の生命、固有の運命、自らの実現すべき目的を持ち、高次の生命へと到達したいというあこがれがある。しかし、この高次の生命は、自らの善を自身の内に持ち、善そのもの、すなわち絶体的な完成として求める。感情は、善と悪の根源であり、精神的道徳的活動性が存することで、善あるいは悪を追求することができる。
この文章は、連続または反復が感情を弱めることを述べ、感情においても徐々に快と苦とを消滅させると主張しています。また、反復または連続は、道徳的活動性を一層容易にすることができると述べ、精神に活動への素質だけでなく、現実的な傾性と傾向を生み出すと主張しています。最後に、善を行う人の心情の内には、習慣が憐憫の受動的感動を破壊するに従って、仁愛の救済活動と内面的喜悦とが、次第に成長すると述べ、愛は自己について与える証しによって力を増すと主張しています。
この文章では、運動や精神の活動において、習慣がどのように形成され、習慣が徳を形成することが説明されています。習慣によって、感覚や感情を弱め、徐々に快と苦とを消滅させることができます。習慣によって、道徳的活動性を一層容易な確実なものにすることができます。習慣は、精神の活動の意志を徐々に不随意な傾性に変え、徳を形成することができます。教育の術は、実行によって善に引き寄せ、善への傾性を固めることである。そして、欲望の自然的自発が、活動の最初の源泉、起源であることが述べられています。
この文章は、道徳的世界においても、善を推し進める源泉は意志ではなく愛であるということを説明しています。意志は行動の形式を決定するだけであり、愛こそが行動の根底、基底、始源となっています。自然も同様であり、自然の状態においても欲望は善に惹かれることによって成り立っています。つまり、自然は先行する恩寵であり、我々の内なる神であるということを表しています。

(Ⅴ)

習慣の法則は、純粋悟性や抽象理性の領域でも見出される。悟性は、運動的活動性と同時に発展するが、感受性、受動性一般とは逆の方向に発展する。悟性には受動性が全く無いわけではなく、運動の想像を含むため、彷徨的理性と呼ばれる。あらゆる運動は、どの程度においても受動を含んでおり、悟性の働きも同様である。悟性は、対象によっては受動的であり、自身を運動させることもある。受動と能動は合一し、受動は悟性の運動の中にあり、能動は悟性の運動に方向と目的を与える注意の中にある。
この文章では、連続または反復が、受動性と能動性に対して相反する影響を及ぼすことが説明されている。知覚や表象は長く続けられると徐々に消えていくが、悟性や想像力が働けば働くほど容易になり、意志とは独立して傾性に変わる。また、観念の連合は習慣の原理によって説明され、運動の原理は存しない。この傾性は自然的自発性であり、注意や意志、意識全体を巻き込みながら、知性の統一と個性とを分散させる無限の多様性をもたらす。
この文章では、習慣や意志、運動と同様に、思考も自然の状態に還元されることが説明されています。しかし、未知の思考を過去や現在で捉えることはできず、反省に先立つ無反省な何かが必要であると主張されています。また、意志は魂の無意識的自発性の流れの中で限界を定めると述べられ、自然の必然性は自由と相まって物事を動かす要因であるとされています。

(Ⅵ)

この文章では、知性と意志は限界に関係しており、運動は間隔を量る。間隔には無限に分割可能な中項が含まれており、両端は中間領域で合一する。限界の知性は中間の知性を含み、目的の意志は手段の意志を含む。両端の知性と意志は、中間の直接的知性と意志を包含しており、直接的知性と意志は中間の全範囲に運動しているものである。直接的知性は観念が存在として現れる具体的思惟であり、直接的意志は欲望や愛といった運動の中に実体化されたものである。この観念や意志は自然であるとされている。
この文章では、悟性と意志が限定的である一方、自然は具体的な連続性を持ち、手段を与えることが述べられています。技術は限界的であり、自然が内部で働き、堅固さを生み出すとされています。知識は一般的な観念性を持ち、外延的な統一を追求する一方、自然は実在の内包的な力学的統一を持っています。
自然と反省的自由の間には、無限の段階があり、その段階を昇るにつれて、反対者の区別や知識の条件が増える。習慣は、この段階を下るものであり、反対と運動の領域内にのみ存在する。習慣の最終的な限界と目的は、実在と思惟の自然の自発性における不完全な同一性である。習慣の歴史は、自由の自然への復帰、または自然的自発性の自由の領域への侵入を示している。習慣が成立する素質と習慣を生む原理は、同一のものであり、存在を構成する働きそのものを固執する傾向を表している。

解説

この文章は、ラヴェッソンの思想に関する講演があるため、ここではラヴェッソンの習慣論の要約に留める。論文は情報を圧縮しすぎているため、全体の構造が見えにくいということを述べている。

(Ⅰ)

ラヴェッソンは、ビランの習慣論について言及し、人間精神が感受性と自発性の両面から構成され、習慣がそれらに二様に影響を与えることを説明している。具体的には、受動的な感覚は習慣によって弱められ、自発性は習慣によって高められる。ビランはこの習慣の二面を明らかにし、受動的習慣と能動的習慣について詳しく論じたことが、ラヴェッソンの注意を引いたと述べている。
この文章は、習慣の二重の作用の根にある原理を、形而上学的に摑まなければならないという問題について、習慣論のビランがまだ解決していないことを指摘しています。しかし、ラヴェッソンは、ある行為を強めることで他の行為を弱める原理が、全て同一の原因によって引き起こされると主張し、この原理を通じて習慣を理解することができると述べました。ラヴェッソンによれば、習慣は存在理解の方法であり、意識から自然に到達する媒介者であり、諸存在のアナロジーは習慣の直感を通じて具体的にとらえられるとされます。また、ラヴェッソンはアリストテレス主義の影響を受けており、ライプニッツの考え方も参考にし、モナドの内面的発展を基に、モナド相互の予定調和を具造的にとらえようとする立場をとっています。

(Ⅱ)

本書の冒頭では、アリストテレスの定義が紹介されており、「習慣とは、一般的で恒常的な存在の仕方である」とされている。しかし、さらに具体的に定義すると、「一変化の結果として、しかもその変化に関して得られた習慣」であることが分かる。この書では、アリストテレスの言葉「エトスはあたかも自然の如し」がモットーとされており、習慣は恒常化と変化の織り合わせであることが示されている。また、習慣を起こす変化の時間性と、習慣を持つ存在の内面性(素質・潜勢)にも注目されている。無機の世界では、習慣を容れることができず、生命の世界に入って始めて個性が現れ、自己固有の形相を持った存在者が現れる。そこで内と外とが分かれ、自発性と受容性の対立が生まれ、習慣の二重作用も明瞭になる。
この文章は、生命の進化について述べています。最初の段階は植物的生命であり、栽培によって野生を矯めることができます。次に、動物的生命があり、植物的生命が栄養成長を司り、印象の受容と身体運動が成り立ちます。そして、中間機能があり、呼吸や循環の周期性、睡眠と覚醒との交替が含まれます。動物的生命に対する習慣の影響は、感覚的なものは弱くなり、運動的なものは増大していきます。ここで、習慣を統一する中心が生まれ、それが精神です。その結果、意識的生命が動物的生命の上に成立します。

(Ⅲ)

本文は、意識について分析している。意識の知性的な面は、悟性の機能であり、多様な統一である。意識の綜合は自己の運動によって起こり、知性の合には意志が含まれている。意識の努力とは、力と抵抗との比の意識であり、人格的意志的な面に関連している。意識は能動と受動の均衡の場所であり、すべての段階において両者が絡み合っている。触覚を例にとって、受動と能動のバランスが重要であり、能動性が勝ち運動が伴うと、判明な知覚となる。しかし、能動性が極端に進んで全く受動を含まない場合、意識の領域を出てしまう。味覚、嗅覚、聴覚、視覚の四つの感覚能力についても、感覚と知覚の均衡が重要であることが示されている。
習慣は、低次の生命においても、高次の意識的生命においても、能動を強め、受動を弱める。しかし、習慣の働き方には、「法則」と呼ばれる「原理」があり、これは意識の底に生まれる「一種の不明瞭な能動性」によって根底にある。習慣は、反省的意志を自動化し、受動化する一方で、隠れた自発性・能動性を育てる。このような習慣の原理は、観念が存在に化したもの、実体的観念として捉えることができる。

(Ⅳ)

本文では、習慣が第二の自然であり、第一の自然を理解する鍵であることが述べられている。習慣は自然界の現象を理解するための基盤であり、例えば手が激しい運動に慣れると字がかけなくなることは、手の運動が一つの型を得たということであり、観念と存在が合一していることを示している。また、病気の原因や生命の相伝についても同じように理解することができる。さらに、外界における生命段階の本質や「自然の連続性」も、意識内の習慣の時間的発展から類推できることが述べられている。存在の全系列は、同一の原理から成る相継ぐ力の連続的系列に外ならず、これらの諸力が生命形式の階層においては、一は他の中に包み込まれて行き、習慣の進行においてはそれとは逆の方向に繰り広げられて行くとされ、下の限界は必然性であり、上の限界は自由であると結論されている。

(Ⅴ)

この文章では、意志や知性の習慣がどのように形成されるかについて議論されています。意志の能動性は、善悪を追求する道徳的活動に関係し、受動性は感情によって弱められます。習慣は感情を強化するために受動的感情を変え、自己をあかしめることによって愛を増幅させます。同時に、このような活動は傾性を形成し、習俗や道徳を生み出します。知性においても、習慣が観念の連合を説明し、活動が迅速かつ正確になるようにします。習慣は自然と関係があり、自然と恩寵と一つになることを示しています。最後に、存在段階は自然から自由へと螺旋形に形成され、習慣はこの螺旋を再び降りて、生と起源を教えてくれるものだと言われています。

おわりに

書き下した文章をChatGPTに要約してもらったが、そこまで意味のズレたものにはならなかったのではないかと思う。私の切り取り方や「次の文章を3000字以内で要約してください。」という命令によってそがれてしまったものがあるとすれば申し訳ない。
面白かったのは途中の部分で突如要約の中でヘーゲルの言説が使われていると言い出した。私の不勉強で申し訳ないが、ラヴェッソンの論の中でそのような部分があるようには思われなかったので切り取る文章の部分を変えて要約してもらった。

突如ヘーゲルの思想について語るChatGPT

この時は単なる翻訳機械というより何かしらの文意を読み取ったAIの意志のようなものが感じられた。
また解説部分の要約(必要なのか分からないが)を頼んでいる時、突然英語で要約し始めたことがあった。それ以降は命令を「次の文章を3000字以内で日本語で要約してください。」にすることで解決したが、本文の翻訳の文章と解説の分かり易い文章とで要約しろという命令に対してAIなりに思うところがあったのかもしれない。

この記事が誰かの役に立ったら幸いである。

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