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03.親父からも就職しろと言われ続けていた

・分岐点

大学4回生は、人生の分岐点でもあった。監督から突然呼び出され、“就職活動をしろ”と。

親父からも、“そこそこの大学に通ってるんだから良い会社につけ”、と毎日言われていた。

周りのみんなは既に就活(就職活動)を行なっていた。そんな中、自分も遅れながらも就活を始めた。

その時期怪我をしていたのでサッカーが出来ないでいた。自分はサッカーがしたい。そんな気持ちも押し殺していた。

エントリーシートは何社も出した。面接にも何度か行った。そのうち一次試験も何個か通り、進んでいく。

それと並行して、自分のカテゴリーのチーム(大学サッカーは人数が多く、チームがいくつもある)はある大会に参加していた。

怪我をしていた為、僕がそのチームの監督として帯同するように言われた。

その大会は僕の地元開催(兵庫県)だった為、実家から大会に通っていた。

そんなある日、大事な試合の日(時間)と、進んでいた就活の面接の日(時間)が見事に被った

自分の感情に嘘を付いて生きたくない、そんな感情がその日急に込み上げてきた。

両親に頭を下げた。“俺、やっぱりサッカーで生きていきたい”と。親父は大反対だった。“今日の面接はどうするんだ”と。

それでも自分の想いは曲げなかった。大会に向かった。この日を境に就職活動は辞めた。サッカーでメシを食うと。

監督としてこの大会に参加させてもらったがチームは優勝を果たした。

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・練習参加

それでも関大のトップチームには入れないし、同期はJリーグのチームの練習参加に行ったりしていた。

次第に余裕も無くなってくる。就活をしている人達も次々に就職先が決まっていく。

僕のチームメイトはほぼ就活をしていて、朝の練習で、グランドで就活の話をしている光景に苛立ち、“グランド来たら、就活の話はやめてサッカーに集中してくれ”、と叱るくらい余裕がなかった

4回生の秋頃、J3の福島ユナイテッドFCに練習参加に3日間行った。普通にプレーをしていた。今思うと恥ずかしい。

というのも、どうやったらこのチームが必要とするのか、欲しいと思われるか、などそんな考えを一つも持たずに、ただ参加していたのだ。勿論、なんの音沙汰もなく終わった。

続けてレノファ山口のテストへ。大吹雪の中でのテスト。何もできない。雪のせいにした自分がいた。正直情けない。

そこから当時社会人チームのfc今治と高知ユナイテッドにも参加した。両方うまく行かなかった。

・合同トライアウト

自分はサッカーができる場所がないのかと、、年が明け、全国各地から社会人チームのスカウトが集まり開催される合同トライアウトに参加した

これが最後だ、という感情だった。100人近くの選手たち、何十チームのスカウトの方々。30分のゲーム形式一本で終わる。

1ー0のゲームでゴールを決めた。試合のあと、数チームから声が掛かった。

そんな中、当時Jリーガーだった新井場さん(元鹿島アントラーズ)がオーナーを務めるfcTIAMO枚方との練習試合があり、参加させてもらい、新井場さんとお話をさせてもらった。サッカーで食べていきたいと。

親身に聞いてもらった。

最終的にトライアウトで声を掛けてもらった1チームとfcTIAMOという選択肢で、TIAMOに入団を決めた

勿論、給与なんて無い様なものだった。バイトに明け暮れる毎日が待っていた。

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そして大学卒業を迎えて、新たな社会人のスタートとなる。それではまた次回!VAMOS!!

たくむ


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