見出し画像

僕の「撤退論」〜『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』〜

内田樹先生の今回の論集『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』
これまでの論集もとても興味深いテーマであったが、この「撤退」というテーマは僕にとっては、いつも考えてはいるが、なかなか考えがまとまらない大きなテーマのひとつだ。

それをいろいろな専門家の視点から論じられるものは、自分の思考を整理するためにもとても勉強になるものであった。そもそも、あまり「撤退」という言葉はいまの日本では(おそらく意図的に)使われておらず、あまり印象のよい言葉ではない。でも、あえて、この言葉を使うことはとても意味のあることだと思うし、周りの人たちと議論する中で、共通言語としてこの言葉を使えるようになることはとても大切なことだと思うのである。

僕は、観光という業界に携わっているのであるが、パンデミックで旅行業会、観光業会は大ダメージを受けた。もともと古い体質の旅行業会は、どんどん縮小する一方で、IT系企業など旅行業界とは関係なかった企業がどんどんと増えてきている。手数料商売というもともと不動産業を模倣したシステムはもうすでに機能していなかった中で、このパンデミックでトドメを刺されたと言っても過言ではないと個人的には考えている。

そんな中でも、観光を再興するには、インバンドの回復がままならない中では国内の消費を増やしていかなければならない。もともとインバンド対策ばかり行ってきた観光庁であるが、インバウンド最盛期でも、消費額の約8割近くは国内旅行客の消費であって、インバウンドの割合はまだまだ少ないのである。そういう意味では、日本の観光の再興というのは、ある程度見通しが立っているのではないかと思うのである。

ただ、今後のことを考えると、パンデミック前まで回復させて、今後どうそれを伸ばしていくか、というのは大きな課題であり、インバウンドが回復すれば、すべて課題が解決されるかというとそうではない。

そもそも、過去のパンデミックや自然災害をふりかえるとわかるように、何かが起きるとインバウンドは一瞬にして、その需要は消えてしまうのである。今後も同じことを繰り返しながらも成長させていくのであろうが、どれだけの企業がその波に耐えることができるのだろうか。今後さらに体力の少ない日本企業は撤退し、外資系の企業が多くなることは間違いないだろう。

そして、観光を進めるにも、観光の受け入れ先の衰退も進んでいる。観光の現場へ行けばうちの街には「売りがない」「お金がない」「人がいない」・・・と言われる。たしかにそういう地域が多いことはたしかだ。京都に比べれば、どこの歴史的な街並みも太刀打ちすることは難しい。でも、その地域にはその地域の良さがあって、その地域の規模もあり、京都のように大勢の人たちを集客する必要もないのである。そして、お金がないというのもたしかで、でも、いろいろな補助金などもあるし、小さく事業を始めることもできるし、いくらでも工夫することができる。そして、一番の問題は「人がいない」ことである。人によっては、面白いことをやっていれば、人が集まってくる。高い給料を払えば・・・と言う人もいるけれども、人口数千人で、高齢化率が30%を超えるような小さな街が、本当に観光にリソースを割けるのか? そもそも、本当に観光を促進したいと思っているのだろうか? ということに疑問に思うことがあるのである。もちろん、その地域の観光に携わる方々は、自分の街が活性化したい、観光客にきてほしい、なんだったら移住する人が増えてほしい、と思っているが、観光に携わる以外の人たちは、どう考えているだろうか。もう自分たちのことでいっぱいいっぱいで、他人を受け入れる余裕がない人というのが本音なのかもしれない。

地方の地域だけではなく、日本全体が人口減少している中で、人の不足は解消されることはなく、また高齢者が増えることによって、エッセンシャルな医療、介護、福祉にリソースを割かなければならなくなることは間違いなく、小さな街が本当に観光に手をつける必要性はあるのだろうか? 観光を促進する立場にいながら、その矛盾をどう解決していくか? というのは大きな課題であると考えている。

だからと言って、取り組まないとただ街は衰退するだけである。うまくいくほんの一部の街は、観光客で賑わい、仕事が生まれ、人口も多少増えるかもしれないが、それは本当にほんの一部のところだけで、人口が増えていない現状では、結局はどこかで人が増えれば、どこかで人が減っているということを意味するのである。それを理解している自治体は少ない(というか、わかっていてやっているのだけれども、それを直視している人は少ない)。

じゃあ、どうすればいいのか? と言われても、多くの自治体はほぼ打つ手がないだろう。そもそも、2100年には、低位推計では、人口は3770万人になると言われており、中位推計でも、7000万人以上が減ると予想されている。そもそも街がなくなるのだ。それなのに持続可能な観光なんて、ほぼ不可能ではないだろうか。

しかし、日本では、江戸時代の頃からすでにお伊勢参りのような旅行があった。そこでは手配士のような職業も生まれ、宿も発展してきた歴史がある。だから、人が移動する限りはきっと観光はなくならないだろう。

観光といえばまだまだ物見遊山的な美しい景色をみて、美味しい料理を食べて・・・というのが多いが、今後はもっとニッチな観光が増えてくるだろう。それこそ、人口減少でなくなりそうな地域を見ること、人口減少に抗っている地域を見ることも観光のひとつになるのかもしれない。そんな言い方をすると自治体の人たちには怒られるかもしれないが、その頑張っている姿を見たい、応援したいという人もいるだろう。
観光は「光を観る」と書く。光というのは必ずしも、景色や建物だけではなく、そこには人も含まれるのだ。

人が人に会うということはこれからもなくならないだろう。人口が減ればもっと人との付き合いはゆるやかに、もっと濃くなるかもしれない。そうなると、その人に会うこともまたひとつの観光になるのである。

いま、ある観光地(特に無理矢理観光地にしたような観光地)というのはどんどん無くなっていってしまうだろう。管理する人がいなくなるのだから。でも、それによって生まれる新たな観光地、自然、歴史も生まれてくるだろう。そういう大きな目で見た循環のようなものを通して、観光もまた形を変えていくのではないだろうか。

別に寄稿を頼まれたわけではないけれども、なかなか言葉を発する場面もないので、この機会に自分なりの「撤退論」を考えてみました。

このような機会をいただけたことを感謝するとともに、ぜひあなたなりの「撤退論」を考えてみてほしいな、と思いました。

『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』

この記事が参加している募集

読書感想文

A world where everyone can live with peace of mind🌟