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喜びの感じ方について 『しあわせの哲学』を読んで

自分は何に喜びを感じますか?
こんな風に聞かれた時に思いうかぶことは何だろうか。
僕が一番最初に思い浮かんだのは「自分が想像もしなかった新しい考え方を知って、これまでの自分の考えを捨てる時」だ。
本を読むことや人と話すとが好きなのはこの喜びを求めてのことだ。

人が喜びを感じるのは次の二種に大別されるらしく、
①低者から承涊される時
②自分がより良くなっていると感じる時
ということらしい。

私の喜びは恐らく②に該当するだろう。
①で言えば、仕事で評価されるとか、気のおけない友人やパートナーがいるとか、その手のことになる。
人によってどちらの比重が大きいかということに違いがあるらしく、もちろんどちらが正解ということではない。
①のパターンなら他者に依在して他者の人生を生きてしまうリスクがある。
②であれば逆に他者性の不在によって考えだけが先行して暴力的になる可能性がある。
何事もほどよく中庸が良いという身も蓋もない結淪なのかもしれないが。

考えれば考えるほど②に偏っている自分がいることに気がつく。新しい考え方や視点を見つけた時の快は相当なものだ。それに気がつく瞬間は徹底的に一人である。これまでの考えを捨てるのも快だ。自分の反論の余地がないほど明快に論理的だから捨てられる
のだ。自分の心の中で考えが対流して動かなくなっている時は大体、捨てられていない時のような気もしてくる。この快は他者から承認では得られない。むしろ、承涊できないことの方が多いので自分は最初から他者を期待をしていなのだろう。結局はゆがんだ全能感との戦いなのかもしれない。

とはいえ、やはりどう考えても新しい学びがあることはとても楽しいことだ。そこに異論の余地は感覚としてない。世界は自分の知らないことばかりで、そして知り尽くすこともできない。だからこそ、自分のわからない未知の可能性について考え出してしまうのだろうし、そんなものだから簡単に自分で見ている世界を捨てても良いと思えるのだろう。

心に浮かんできたことを思いのまま書き留めることをこれだけ続けてきたのも、書いて終わらせたいからかもしれない。不思議と読み返す気持ちにはなれないのは、それが「終わってしまった」ということだからだろう。

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