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11月6日(みんな仕事の進め方が違くて驚いた話)

今までずっと仕事は一人でやることが多かったのだけれど、最近ちょっと連携してやることが多くなってきた。
周りの人たちがどんなふうに仕事を進めているか、全く知らなかったのだけれど、それを見学できることで最近考えていたことの答えがわかってきたと思う。

ゲーム的に例えると、技の「練度」と「種類」の2軸があることに気がついた。
ある課題に対して、どう解決に導くかという違いなんだけれど、僕はどちらかというと「練度」は低くて「種類」が多いタイプだなと思った。
周りの人たちは「練度」が高いんだなと思う。
もちろんどっちがいいと言う話じゃなくて、どっちだって社会は滞りなく進んでいく。それは変わらないけれど、自分と同じタイプのやり方をする人が全く見当たらなくてびっくりした。

一緒に打ち合わせとかをするとその違いがはっきり出て、足並みが揃わなくなってしまう。
逆に作業物とかは完成品のクオリティは結構低い方だし、そもそもあんまりやりたくないという気持ちが先行してしまうので、必要最低限しかできていない。

社会の中で社会的に振る舞うということは、つまり「練度」が上がるということかもしれない。
ある典型的なパターンが来たときはこういう風に処理する、という条件プログラムを繰り返しおこなっていくことで、粛々と効率よく進めていくことができる。
「粛々と」って業界用語なのだろうか。
そういえば、仕事で僕は「粛々と」という言葉を使ったことはほとんどないかもしれない。周りの人たちは結構使っている。
そもそも感覚として「粛々」していることはほとんどない。
その場の流れを読んで、どう打ち返すか、全体利益を最大化する解答を考えながら進めている。
こうやって書くと聞こえはいいけれど、つまり適当ってことだ。

だから、「あなたの考えや作り物に手を入れるようで大変恐縮なんですけど、改善しました」みたいに下から言われてしまうと大変困惑する。
そもそも、別に自分の解答はそういう流れの中で生まれたものだから、流れの外から見て違和感があればどんどん改善していいと思っている。
別に自分の解答に強い思い入れがあるわけじゃない。魂的な正しさに反しない限り、つまり「道」から逸れていない限りは何をしたっていいと思う。

こういうやり方をしているから社会的な「成長」みたいな概念が何かわからないんだと思った。
そもそも、「練度」について全く意識していなくて、そこは自然に任せたり、やりたくないことはしなかったりしていたから、どの社会に行っても同じような他者からの評価になるんだと思った。

じゃあ僕はどうして行けばいいのだろうか。そこはまだ考えられていない。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。