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10月20日(僕はよく食べるリーフレタスを知らなかった)

坂口恭平さんのツイートを見て、「レタス」と「リーフレタス」が違うことを初めて知った。
コロナ中に野菜が高かった時、なぜか安い値段で売っていて、よく買っていた。
僕はこんなことを知らなかったのかと、愕然とする。普段食べている野菜がどんな姿をしているのかも知らなかった。
魚の切り身が海で泳いでいると思っている子供、なんてのが一時期話題になったりしていたけど、それと全く変わらないじゃないか。

普段食べているものがどんな姿かわからない。
いったい僕は何を食べているのだろうか。食事と、どう向き合えばいいのだろうか。
社会は見知らぬ他者を信頼することで発展してきた。もう、自分で自分の食べ物を作るなんてことはなくなってしまっている。でも、そういうことに疑問を持つ人々が一定数存在するのも、このことで理解できた。
やっぱり本能的に怖いのだ。自分の命を他人に預けることは、本能的に怖い。
怖い、というか気持ち悪さみたいなものがあるだろう。合理的と言えばそれまでなんだけど、合理性によって失っていいものなのだろうか、ということは一考する必要がある。

そういうことについて、僕たちは目をそらしているのだろうか。
環境を見直すことは、普段からみんながやっているだろう。
仕事場が変われば住む場所を見直すし、結婚すれば収支を見直すし、コロナになれば生活スタイルを見直す。
そんな当たり前のことなんだけれど、生まれた時からデフォルトの値として設定されているものは、改めて見直すことはない。
だから、物が溢れる社会において断捨離なんて言葉が流行るし、誰か気がついた人が声を上げる必要がある。

僕は無知なだけなのだろうか?本当はみんな「リーフレタス」がどんな姿をするか知っていて、僕だけが無知に取り残されてしまっているのだろうか。
リーフレタスは、立派な姿をしていた。まるでジャングル、熱帯の植物みたいに、鬱蒼と茂って、見るだけで美味しそうだ。(どこの植物なのかも知らないことに気がつく)
僕のよく食べる食物を考えてみよう。昨日は何を食べたか。
しいたけ、とうふ、昆布、レタス、みょうが、、、
一応、どういう人たちか知っている。と思うけれど、実際に自然界にある姿を知っているかといえば疑問が残る。
大豆は小学生の時に育てた気がする。みょうがやしいたけは、田舎で育てていたり、自生したりしていた。
レタスは見たことがない。昆布も、海に行ってこれが昆布だと指し示すことができるかと言われると、かなり厳しい。

そんな世界を僕は生きている。

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