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10月11日(去って行ってしまったみんなを忘れていない)

昔にも記事を書いた記憶があるけれど、時の流れ早い。会社は入れ替え可能な人で構成されているから、いつかは入れ替わってしまう。
それが「社会」の常識で、あんまり疑問に思っている人はいないようだ。
自分も同じだからかもしれない。いつか辞める時が来たら、とりあえず揉め事にさえなっていなければ、問題はないと思う。揉め事になったとしても、解決ができないなんてことはない。時間は流れているし、入れ替えは可能だからだ。

そういうことを考えると普段の会社でのコミュニケーションってなんなんだろうと思う。
なんだか心が通っていなくて、みんな薄い膜のような殻に包まれて、でもその殻は透明だから、とりあえず交流することはできる。
そこに直接、生身の体で交流をしようと思うと、うまくいかないか、拒絶されてしまう。
そんなことを持ち込んだら、「透明の殻システム」がうまく機能しなくなってしまう。これは同時に排除のシステムである。

辞める時、人は少し透明の殻の力が弱くなると思う。みんなそれぞれに人生があって、それなりに悩んだ結果、そこの場所を飛び出すわけだから当然だ。日本的な家族システムで会社が回っていると尚更そう感じる事が多い。
だけど、透明な殻を相当に発達させたメンバーは、その個人の人間性を否定してしまう。
本当は困ることなんてないのに。まるでシステムが崩壊してしまうかのように振る舞い始める。認めたら、自分の価値も無くなってしまうような、集団の価値も無くなってしまうような、そんな気がしているんじゃないだろうか。

僕にはやっぱり理解出来ない。みんな一人の人間だと思っているし、コミュニケーションをとるときは、殻に飲み込まれないように細心の注意を払っている。それでも、飲み込まれそうになってしまうのだけれど。
僕はそういう生き方はしたくない。いつだって、全員が一人の人間だと思って、各人と生身の体をぶつけ合いたい。
仕事だって、友達だって、自分の魂を全力でぶつけていきたい。そんな訳のわからないコミュニケーションは嫌だ。

だって寂しいじゃないか。去っていった人を、去る前の場所を、ひとつも思い出せないなんて。思い出してもらえないなんて。
みんな風景なんかじゃない。それぞれの人生がそこにはあって、魂がそこには合って、そこで感じたものをちゃんと引き継いで生きていきたい。
引き継いだ魂の数だけが、僕を支えてくれているんだから。

だから、少なくとも僕だけは、そういう魂の交流を諦めたらいけないんだと思う。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。