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火守のことば ~仙台たき火ティー99回と100回目のあわいに~

たき火ティーの場って何?火守って何?

どうも。仙台を拠点に「仙台たき火ティー」という、焚火と対話のコミュニティーをしてい豊です。

先日の99回目の焚火場の後に、たき火ティーの女房役の山ちゃん(山崎賢治さん)が「火守のプレゼンス」という言葉を使ってその場を表現していました。

それに触発されてか、今、火守というものを巡ってちょっと言葉にしておきたい感覚が湧き上がっていたのです。その湧き上がる感覚のまま言葉を出していこうと思い、この文章を書き始めました。書き終わったので知ってますが、すごく長くなっちゃって(笑)。うーん、と唸りながらではあったのですけども、言葉として出てくるものもあり、今の自分に必要な事だったのだろうと思ってます。

さてさて、たき火ティー。焚火の場です。仙台たき火ティー「人と火と対話と」を標ぼうしてきました。オリジナルTシャツには「bonefire&ⅾialog」と自分で書いたし(笑)。焚火と対話です。

うん、対話。そう、対話、と言ってきた。けど、これ対話なんだろうか?という問いが今あって。それと、当たり前に「街に火守を増やしたい」とか、僕言ってて。それ一体何?BBQマスターか何か?それともファシリテーター?

仮に僕が火守だとして(そう言っている訳ですが)実際には、場を作っているだけ。「開催しますよー」とね。
街中で焚火する時は話しすらしないし、実際。
ただ、見てる。その場を見てる。マシュマロを渡したりしながら。

だとしたら、いよいよ火守って何?

色んな人がいる。

焚火の場には色んな人が訪れる。
火を見る人。
火に魅入られてしまう人。
火から逃げるようにソワソワとしている人。
輪っかに入るが火を見ない人(一定頻度で本当にこういう方がいるのは驚きと気づきだ)。
どうしても火と居ることが苦しそうに見える人。
とにかく自分の事が話したい人。
そんな人たちと、ただ一緒に火を囲むこと場を不定期に作っているだけ。

「テーマを設けないのですか?」とも聞かれるが、設けてない。ただの焚火。

では、火守は何をしているんだろう?

場を意図をしている。
座った人が安全に過ごせるように。
ゆったりとした時間が過ごせるように。
その場にいる全員がそこで起きている事と共にいれるように。
何よりも火を囲んだ人が自分を感じることが出来るように、と。

安全。居心地。対話。火守が、というよりも火守の意図がすべてを作る。

パリピがやれば焚火パーティーになるだろう。
アウトドアギアが好き過ぎる人がいればギア披露の場となるので、興味がない人には地獄だ。
場を踏み台にして自分が目立とうとする人が作れば、きっと場はその人のためだけの場になる。
対話守がやれば、対話になる。
優しい人が火守をしていると、場が優しくなる。
ただ静かに火を眺める火守がいれば、その静けさは火を通して場の全員に渡っていく。

見ていると(自分の内面も含めてと言う意味で)、場の誰かが自分(の思いやこだわり)を握りこみ過ぎている時に、場は硬直する。もっと端的に言えば、しらける。

途中から、「トーキングスティック握っている時間が長いから、そろそろ誰かに渡してね」など、お願いするようになったけれども、自覚的にせよ無自覚的にせよ、誰かが場をコントロールあるいは支配しようとする気持ち、が強すぎる時に、しらけ、は起きるような気がする。

「焚火の時は話さないでとにかく黙って座っていてね」ということではないのです。話量の問題ではない。声量の問題でもない。話量が多くたって話す人によっては場に沁みいる事がある。対話は成立するように思える。それは、実は在り方の話しだったりして、だからややこしい。そして厄介だ。

焚火は厄介だ。

厄介だ。焚火は実に厄介だ。だって、焚火の場もやはり、現実世界だし、コミュニケーションの場であるし、関係性の場であるから。だから、在り方が炙られる。

焚火はとてもシンプルで正直だ。焚火を囲んだ人たちは正直だ。だから、場や他人への敬意ではなくて支配さんマウントさん達が姿を現すと、一瞬で炙り出されてしまうし、しらける。そしてなにかしら、毒、のようなものは火に飲み込まれる、燃え尽くされる。あまりに湿っていればくすぶり続けやがて火は消えてしまう。とにかく、焚火は炙り出す。自分の言葉が「誰にも何も伝わらない」ということが、文字通り骨身にしみてしまう。
やっかいだ、とても厄介だ。そして、それはとても苦しいことでもある。

実際のところ、そう多くはないけれども、そうしたある意味での焚火の場のいたたまれなさから、場を後にした人はそれなりにいる。僕への攻撃という形でそれが顕されたこともある。きっとそれも、焚火の持つリフレクション機能なのだろう。ただ、実はそこが堪えどころだったりするのだ。実はそこからが対話の始まり、内省の始まりだったりもするから。

コントロールを手放す

コントロールを手放したい、と思っている。

それは実はビジネスであれなんであれ、同じ、自分は。実際自分は、火守を続けることを通して、マネジメントや組織を考えているのかもしれない、と思ってきたところもある。

そもそも、火守であるあなたは、なぜそこでそうしているのか?
自分が名を上げるため?
社会課題を解決するため?
火に魅入られているから?
人の可能性が燃えあがるのを見るため?
まちづくりの実践としたいため?
ポリティカルな討議をしたいから?
人と人を繋ぎたいから?
楽しく酒を飲みたいから?

その「なぜ?」それがそのままその場になる。当たり前かもしれないけれど。いや、実はそれは当たり前、というほど当たり前でもないかもしれない。意図しなければ、場は生まれない。

だから、自分に問いがある。
お前は一体、火守としてどうしたいのか?と。
だって、別にいいじゃん?ギア自慢の酒を飲むイベントだって。うん、良いと思う。まったく問題ない。
でも、自分はどうもそうじゃない意図を持って焚火の場にいたいと思っているようだ。

自分は、そもそも、焚火の場でどうしたいのか?
色んな角度の変化球はあれど、必ず聞かれる言葉。

当初、色んな人を繋ぎたいと思ったし、つなぎ役になりたいとも思った。
そのうち、特に組織に関わってきた経験からコミュニケーションの問題を解きほぐす術を探求したいと思っていた僕は、対話の実践の場にしたいという欲も出て来た。そういった場を作りたい、と思った。

だが、例えば仙台駅前での場のような「街場の焚火」ではそれが結構難しかった。そして逆に難しかったのが良かった。ただ場を持って、そこで幸せそうにしている人たちを見ているのが嬉しくなった。同時に、その場をどうこうしようと思う気持ちが消えた。それと、同時に、半開きである場のセレンディピティー(うっかり、とも言う)に自分を差し出している感覚が強く、とても強く残った。それはとても強いインパクトとして僕に残り続けている。

もちろん、来てくれた人たちとのご縁が繋がるものは繋がった。新しいものが生まれるものは、生まれた。だけど、それっきりの出会いだってあったし、本当に一言も交わさないことだって普通にある。そして、それで良いと思うようになった。

そして、それ故にというか、意に反してというか「こんなのは対話じゃない」と言われたこともあった。

「大石さんのは対話じゃない」

そうなのだ、と思う。ある意味でまったく対話じゃないのだ。

そもそも、本当の最初は、自分自身が、ただ焚火に魅入られる体験だっただけだ。ただそれだけ、だけどそれはすごい体験だった。大げさに聞こえるかもしれないけれども、世界と邂逅するような体験だった。おそらく純粋に自分の気持ちが豊かになるような体験だった。いや、本当は豊かになる、だけでは生易しい。

生きていること。生きていくという事。それがどういう事であるのか、体で感じるような出来事でもあった。それは、「ここではないどこか」をいつも探して、本を読み漁っていた若い頃の自分との邂逅のような体験でもあった。※下記は、その体験あたりについて、だいぶ拗らせた中二病者として書いた「まちりょく」内のコラムです。

そうして、自分にとって焚火を囲む時間はとても大切なものになっていった。だから僕はそれを誰かに伝えたかったのだ。素晴らしいものを見て、感じる経験を、なぜ1人だけでしているのか?と。そう感じていたから。

それは結構、大事な事だったのかもしれない。自分自身が、皆と分かち合いたいと思った、というその事が。そうした思いがあればこそ、人はそこに共鳴できるのだろう。その場にまた来たい、とか、誰かとやはり一緒にまたいたい、と思うのは、その場からそうしたインパクトを受け取ってくれるからなのだろうと思う。

そして、それこそが、自分が創り出したい事、だったような気もする。ここは結構大事な事なんじゃないか?この「創り出したいこと」が一体何なのか、が。

創り出したい事、を通して表現されようとしている自分自身がそこにいる感じがある。今も感覚として湧いてくる。その、表現されようとしている自分自身、それを僕は火守と言っている、きっと。このことについてはもう少し粘らなければならない。この文章が終わるまでに何か残せればよいが。。

途中から、「対話じゃなくても良い」と言い始めたのはきっとそういう事なんだ、と思う。

きっとそうなのだ。だが、それはどんな事だろうか?

それは居場所、となる。

話さなくともつながるような、時間のシェアの仕方がある。それは、おそらく居場所となる。時間、と言った。だがそれは時間、ではなく、自分自身という存在のシェア、のようなもののようにも感じる。時にそれは、交わされた言葉によることもあるかもしれないけども、一緒に火の爆ぜる音に耳を傾けた、その経験だけによってであったりもする。すなわち、ただ、それぞれが、本当にただそこにいることによって。

そして、きっと、その時、そこは、その人の居場所なのだ。(これは自分にとってすごく大事な事だ)。

そして、それは、僕たちの普段の生活の中では、どうやらあまりにも得難い。だから、皆「幸せだった」と言って焚火の場から帰っていく。きっと、僕はそれが見たかった。

僕はそれが見たかった

みんなに、居ていいんだよ、大丈夫だよ、と言いたかった。本当にただそこにいるだけで大丈夫、と言いたかった。
なぜか。
それはほかでもなく、僕が、僕自身に一番かけてあげたかった言葉だったからだ。きっと。

狭義の対話の仕方、というのはあるだろう。実際に、僕の仲間にはそれを探求していて、プロセスの設計やあり方によって素晴らしい場を作る人がいる。

だが、言葉を出すことだけが、対話、という訳ではない(これもまた仲間の智慧だ)。対話、とは、今のそのままの自分をその場に預けることだ。話す人は話すのだろうし、話さない人は話さない。

「自分らしさ」というもの。

よく「自分らしさ」と言うが、人は自分らしさに苦しめられ、多分そこから逃げ出そうとしている。そしてそれは、いつも自分を追いかけてくる。

だけど、自分らしさ、なんていうものは本当はない。だってそれは、誰かが言う自分、の事だ。それに何よりも、それは過去の自分の事でしかない。

仮に「自分らしさ」という言葉が指し示すものがあるとすれば何なのか?
それは、今、この瞬間にいるあなたそのものなんだと思う。
今、ここで出てくるあなたの言葉そのものなんだ、と思う。
今、言葉が出せない・出て来ないあなたそのもの、なんだと思う。
火はそのあなたを照らし出す。そのあなたを見てくれるんじゃないか、と、思う。

その時、火に目撃されているあなたは「世界」に顕される。そして、何より、あなたは出されていなければならない。誰かが決めた「あなたらしさのイメージ」ではなくて、今この瞬間に湧いているあなたとして。その時焚火はあなたを語っている。

そしてそれは多分世界を形づくる。それは、あなたを通して形づくられる世界の姿だ。

その時、自分は世界とともに居る、世界の中にいる、今見て、座って、声という波動を、心の震えを、呼吸の振動を差し出している自分という世界を、他者と分け合っていることは、まったく別の存在同志として分け合っている、ということは、世界がまるごとそこに現れ出ているということ、に他ならない。そう思う。

僕はそのことを焚火の場に見たいと思っている。

火をまっすぐに見れない人がいても良い。今じゃない人でも良いかもしれない。だけど、きっと、その体験は、いつか、どこか、ここではないところで、何かの形で別のものとして現れることだろう。僕がそれを体感することはないかもしれない。当事者ですらそれを感じることはないかもしれない。
だけど、それは必ず起きざるを得ない。
世界は変わる。
火を一緒に囲んだ瞬間に、世界は既に変わってしまっている。

その時、私は世界を生きていて、きっとなんからかの形で世界に生き続ける。ちょうど、星野道夫さんが「旅する木」で語ったトウヒの木の物語のように、だ。

それは早春のある日、一羽のイスカがトウヒの木に止まり、浪費家のこの鳥がついばみながら落としていまうある幸運なトウヒの種子の物語である。さまざまな偶然を経て川沿いの森に根付いたトウヒの種子は、いつしか一本の大木に成長する。長い歳月の中で、川の浸食は少しずつ森を削ってゆき、やがてその木が川岸に立つ時代がやって来る。ある春の雪解けの洪水にさらわれたトウヒの大木は、ユーコン川を旅し、ついにはベーリング海へと運ばれてゆく。そして北極海流は、アラスカ内陸部の森で生まれたトウヒの木を遠い北のツンドラ地帯の海岸へとたどり着かせるのである。打ち上げられた流木は木のないツンドラの世界でひとつのランドマークとなり、一匹のキツネがテリトリーの匂いをつける場所となった。冬のある日、キツネの足跡を追っていた1人のエスキモーはそこにワナを仕掛けるのだ。・・・一本のトウヒの木の果てしない旅は、原野の家の薪ストーブの中で終わるのだが、燃え尽きた大気の中から、生まれ変わったトウヒの新たな旅も始まってゆく。

星野道夫「旅をする木」(文芸春秋社刊)

そのことを、僕は火の中に見つめたい、と思う。

そしてただ、見ている。子どもたちを。親子たちを。火と対話している人を。どうしても今は火と対話出来ない人を。

出されたがっているものに出会う

ある人に言われたことがある。自分の長所は「良い悪いを越えて、その人の現実をそのままの形で聴くことが出来る事、だ」と。

自分は実は職業的コーチでもある。

その人がその人の言葉を聴かれたいままに聞きたい、という気持ちでコーチングに向き合ってきた。そうあれるようにトレーニングと実践を日々繰り返してきた。目の前の人が、その人であることを、その人自身として知ることが出来るようにと願い、その瞬間をその人と分かち合うために。そのことを思い起こす。

自分はその場に触れたくて職業人生を歩んできた。そして、自分は、焚火を囲みながらそれをしようと思っているようにも思う。

出されたがっているものを、出されたがっているそのままに、場に出してもらえるように、出せる力を信じて、火とともに待つ。それが火守の姿として、僕が置きたい姿。

自分の声に耳を澄まして、すると聞こえる世界の声。そういうものを信じること。信じてそこにいようとする事。

「ちょっと座ってく?」

これは、2022年秋の仙台市青葉通駅前活用のための社会実験に参画するにあたって、火守のメンバーで集まって対話する中で生まれ出たメッセージだ。

「とりあえず座ろうよ。今日どうだった?」。そんな言葉とともに今日という一日が終わり、明日がやってくる。昔昔から儚くも短い人生を生きた人々が営んできたそんな行為として、そこにいていいよ、そこにいて欲しいよ、と僕は火とともに言いたいくて、焚火をしている。

その時、自分は、他人を許している。いや、違う。他人に開く自分を許している。そして、そうしている自分を許してもらっている。自分はきっといつもここに戻ってくる。そして、あなたにもそうあって欲しい、と、そう思っている。だから焚火をしている。

火守は自らを場に差し出す

対話じゃなくても良い、と思っている。これは全然対話じゃない、とも思っている。でも、やっぱり、これは、きっと、対話なんじゃないか?

そしてこの対話は、火守が、自分として場に自分を差し出す事から始まる。感覚的には、身を世界に晒すような感覚でもある。

痛い、苦しい、腹が立つ、違和感を持つ、共感する、嬉しい、体が軽くなる、思わず言葉が、気持ちが沸き上がってくる。涙が出る。話したい、でもうまく話せない。伝えたい、でも言葉に出来ない。でも湧いてくる。そう、湧いてくる。

自分を通して何かが湧いてくる。それは自分の気持ちや自分の考えのようでいて、実はそうではないものとして感じられる。それは、その瞬間にそれを感じたという意味での「自分らしさ」を通して、世界が表現したがっている何か、だ。

それは、決して自分から生まれたものでもない。自分に耳を澄ませて自分から出てくるもののようでありながら、他人の声を聴きながら、イガイガ、スルスル、ゴツゴツ、ヌルヌルする質感への判断を一旦保留して自分の中への一度放り込んだからこそ響いてくるこだまのような声。その結果として生まれてくるもの。自分がいなくても生まれたかもしれないけれども、他ならぬ自分がいなければ、自分を通してしか、たった一度のこの瞬間の一回性を通してしか顕され得ないもの。差し出された体、文字通り体から響く音としての声、あるいは怒り・悲しみ・喜びの、文字通りの振動。

火守はそういう体を差し出す者として、火を守る。輪を守る。守る、というよりも、どこかのタイミングからか、ただそこにいさせられる。供儀の供物として。その時だ、コントロールが自分の手から離れるのは。意図は持つ。でもコントロールからは離れる。そうだ、だから僕は火を焚く。握りこんでしまっている自分を手放すために。そのことを、輪を囲んだ人たちに教えてもらうために。自分が今、この瞬間を、こうして生きていることに許しを出すために。それが、火守。僕という火守。

仙台たき火ティーとして開催してきた焚火の場は1年と10か月で99回。
次で100回。ただの数字。でも100回。のべ多分2000人位と場を囲んできました。でも一回、一回、ニコニコ、イライラ、モヤモヤ、フニャフニャ、グチャグチャ、ヘラヘラしながら、ただ僕としてそこにいました。多分、次も同じように、ニコニコ、イライラ、モヤモヤ、フニャフニャ、グチャグチャ、ヘラヘラするんだろうと思います。それが僕という火守で、火守という僕です。

仙台たき火ティーは「対話じゃない」と言われた。その瞬間、多分、その通りだったのだ、と思う。それは僕自身の意図が歪み、毒素を持ったからだったんだろう、と思っている。僕自身がコントロールを持ち出し、いやな匂いを発する薪となったからだったんだろうと思う。焚火はそういのを見逃さない。とても痛い経験をした。苦しい経験をした。でも、僕は焚火の場に身を委ねることを続けたいな、と思うのです。

相方の山ちゃんや、人によっては「マイパブリック」を創る実践、のように言ってくれる人もいるけども、自分は、ただ、きっと自分のために自分の身を焚火を囲む人たち、という世界、に晒したいんです。痛みがあっても世界に参加することを諦めない、つまり、対話を諦めない、という自分を生きるために。そういった極めてパーソナルな事情のもとに、1人の対話好きとして。焚火の場を作りたいんです。

そんなたった一人の人としての皆さんに逢いたい、と思っています。

逢いに来てください。
一緒に焚火にあたりましょう。

パチパチと爆ぜる焚火の音に耳を澄ませましょう。

そして、出逢って欲しいんです、本当にただそこにいる、という全然当たり前じゃない、奇跡のような当たり前のあなたに。

と、いささか乱暴にこの文章は終わろうと思います。
だけど、火は焚かれ続ける。それで良い、と思う。

たき火ティー99回目と100回目のあわいの時間に。
仙台たき火ティー 大石豊

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