アート思考本を読んで感じた【アート思考の限界】と、その課題を突破する【行為としてのアート】
01.アート思考に対する強い期待
VUCAと呼ばれるこの時代に「答えがある問い」は数少なくなってきています。そんな時代では従来の「論理思考」や「デザイン思考」では限界があるとも言われています。この課題を突破するものとして期待されているのが「アート思考」または「アートシンキング」と呼ばれるものです。
私は「人生におけるアート」の価値に強い期待を抱いています。多くの人にとって「アート」はビジネスも生活も含めた人生そのものを、より豊かにすると信じています。
以前からアートに対する期待を感じていたところに昨今のアート思考ブームです。これは期待も俄然高まった・・・のですが、どうも世間で言われる「アート思考」「アートシンキング」に同意する部分と物足りない部分が存在することに気付きました。
私が読んだのは以下の4冊です。
アート思考 ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法
最初に読んだ本です。そして、「なんか違うんでないかぃ!?」と思ったがゆえに他のアート思考関連書籍を読もうと思ったきっかけになりました。(個人の感想ですよ)
アートそのものに関する考え方は同意できるのですが、「アート界における価値創出の手法」みたいな要素が強すぎて、それって「アートの価値と言えるのかなぁ」という感想が素直なトコロ。
ハウ・トゥー・アート・シンキング 閉塞感を打ち破る自分起点の思考法
圧倒的な同意と、圧倒的な反対が同居する、稀有な体験をさせてくれた本です。そういう意味で、とても面白かった。筆者と議論するつもりで読んでください。あんまり要点だけを拾う読み方はオススメしません。読後感の「モヤモヤ」こそが、筆者が生み出したかったものなのかな。
「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考
この本は書籍ではなくワークショップです。紙とペンを用意してこの本に向き合ってみてください。それがこの本の価値を最大限感じる方法です。アート思考の前段の「アートそのもの」に対する解釈は、最もスムーズな腹落ちだったと思います。だからこそ、もう一歩「行為としてのアート」に踏み込んでほしかった。
未知の領域が生まれるビジネス思考術 アートシンキング
「ビジネス思考術」と銘打っている分、他の書籍よりビジネス中心の展開です。帯にも「アート的な」という表現をしているとおり、アートから外の領域に足を踏み出しているような内容の書籍だと感じました。
どちらかと言えば、佐宗邦威さんの「直感と論理をつなぐ思考法」やロベルト・ベルガンティの「突破するデザイン」と共通項が多く、またビジネス面ではこの2冊の方がスムーズに理解・実践できるかなぁとも感じます。
さて、このアート思考本×4冊を読んでみて、アートの価値を強く再確認できました。その点については昨今のアート思考ブームの功績も大きいと思います。
しかし、その先にある「私たちの生活にいかに落とし込むか」というポイントについては「アート思考では不足しているのではないか」「アート思考では限界があるのではないか」・・・そう考えるようになったのです。
02.アート思考についての2つの疑問
世間で語られる「アート思考」を、浅い領域ではあるものの理解したところで「浮かんできた疑問」が2つあります。
・アーティストは、なぜ「問」を発することができるのか
・アート思考は、どうすれば体得することができるのか
アート思考の実践方法については各書籍に触れられています。しかし、私は最初の「アーティストは、なぜ「問」を発することができるのか」を考えてみたときに、どうも各書籍のアプローチに不足を感じたのです。
03.「アーティストは「問」を立てる人」という「言葉足らず表現」
私はこのフレーズが「言葉足らず」であると感じています。確かに、アートとは「問」であるという点には同意しています。
「問」だけではないとは思いますけどね。「問」を含んでいて、「問」が着目されやすく、「問」が創作に重要であるということ。
さて、アーティストは「問」を立てる人
何が言葉足らずなのでしょう?
私は、アーティストは「問」を立てることができる人
だと考えています。
「問」を立てることだけがアーティストの存在意義ではないと思っています。「問」を立てることで存在意義を示すアーティストも多くいます。「問」はアーティストにとって重要な要素でありながら、アーティストそのものを現す言葉ではない。さて、そのココロは?
それは、アーティストの創造プロセスとは「思考」と「行為」のサイクルで実践されているからです。
言語化するほどのことじゃ無いですよね、当たり前ですよね。でも、アート思考はアーティストの「思考」にスポットを当て、その思考の流儀を私たちに落とし込もうとするものです。(ちょいと乱暴な表現ですが)
しかし、アーティストの創造プロセスとは「思考と行為の往復」によって成されるものではないでしょうか。私はそう考えています。
だと言うのに、アーティストの「思考」部分だけをトレースしたとして、アートの価値を正しく活用できるのでしょうか。
アーティストは「作品」を通して思考をアウトプットします。これがつまり「行為」。行為は一度で作品としてアウトプットされる場合もあれば、延々と「こうじゃない」「これは違う」と思考と行為を循環することもあるはずです。
「思考」がアーティストにとっての「問」であるならば、「行為」とはアーティストにとっての「解」とも言えないでしょうか。ここでの「解」とは「正解」を指すわけではなく「自分なりの解答」という意味です。
アウトプットした作品のテーマそのものが「問」であるときも同様です。アーティストは「問」を発するという「解」をアウトプットしたと捉えています。「正解かどうかは分からないから世界に問うてみよう」という「解」だって存在するはずです。
アーティストは、日々この「思考(問)」と「行為(解)」の連続のなかに身を置いています。このサイクルを長きに渡って継続することが、アーティストに「問」を発するチカラを身につけさせたのではないでしょうか。
だから、私は「アーティストは問を発することができる人」だと捉えているのです。もちろん、「問」を発することそのものを目的とするアーティストもいるでしょう。しかし、そのアーティストも最初から問を発することができたわけではなく、「思考」と「行為」の連続のなかで「問」を発するチカラを体得した。目的と手段が一致するようになった、と考えることはできないでしょうか。
04.アート思考は、どうすれば体得することができるのか?
さて、そこで2つ目の疑問に至ります。「アート思考」はどうすれば体得することができるのか?、いや、もう少し荒い言い方をするならばアート思考本で紹介されている方法でアート思考は体得できるのだろうか?・・・という疑問です。
各書籍はアート思考の何たるかが的確に解説されているので、それなりの「アハ体験」があります。しかし、それは自己の「思考」の枠組みに留まり続けているものです。だから、本を読んだときには爽快感があったり、それこそモヤモヤ感を抱えた「考えさせる」という段階には至ります。
でも、それは「行為」ではありません。「行為」の価値を提示せずに、その実践に至ることができる人がどれほどいるでしょうか。
とは言え、まったく「行為」が紹介されていないわけではありません。
一つ、アート思考の習得方法の「行為」として紹介されているのが「現代アート鑑賞」です。鑑賞のなかで「自己ならではの問」を設定するという、一般的に私たちが実行しがちな「美術鑑賞」のイメージとは異なる方法論を提示してくれています。
もちろん、「現代アート鑑賞」はアート思考を体得するために有効な一つの方法です。例えば社会にインパクトを残した作品を「しっかり見る」とい行為には価値があるでしょう。
しかし、それはあくまで一つというだけで、この行為だけで完結できるものではない。アートを構成する要素として不足があるのでは?ということが言いたいわけです。
ここで気になる問題が、さらに2つ出てきました。
・自己が起点のようで「他者が起点」なアート鑑賞
・「言語化」は大切だが、アートの行為の一部に過ぎない。
この2つの疑問を紐解いていくと、なぜ私が「行為としてのアート」に目を向けたかが分かります。
05.自己が起点のようで「他者が起点」なアート鑑賞
アート鑑賞は、あくまでも「誰かの作品」を起点にした思考のアウトプットです。それは「自己を起点」としているようで、実は「他者が起点」になっている行為です。
もちろん、他者が起点であったとしても現代アートを通して「自分なりの問」を設定することは可能です。そして、その行為はアート思考を育んでくれる一つの要素であるとは思います。しかし、より「自己を起点」とした行為だってあるはずです。
自己を起点とした問いかけから始まり、自己の持つ表現方法でアウトプットする。これは、現代アート「鑑賞」では出来ないことだと感じます。しかし、「行為としてのアート」ならできるはず。だから、これらは組み合わせることが効果的なのでしょう。
06.「言語化」は大切だが、アートの一部に過ぎない
「アート」に向き合うときに、「言語化」は重要な手段として語られます。それ自体に間違いはありません。しかし、「言語化はアートのすべてではない」はずです。
現代社会は「言語化」の能力に対して非常に重きを置いています。関連書籍も多く出版されていますね。ビジネスのみならず人生を有意義に送るための方法として「言語化」に注目が集まっている状況とも言えるでしょう。
アートにおいても言語化は重要な手段の一つです。しかし、言語化は重要な手段の「一つ」でしかありません。
アウトプットの手段は他にもあるのです。そこに目を向けずに言語化ばかりに目を向けてしまうことは、アートの持つ可能性を自ら狭めてしまっているのではないでしょうか。
例えば、ある作品に向き合ったとしましょう。このとき、作品の「イメージ」は私たちの「脳」で加工され「言語」にアウトプットされます。これが「言語化」の流れです。
しかし「行為としてのアート」は何も言語化に限りません。イメージで取り込んだものをイメージでアウトプットしても良いのです。出来るのです。
例えば何かの絵を見たときに別のビジュアルや風景が連想されることはないですか?、言語を経ている場合もあれば言語をすっ飛ばす場合だってあるでしょう。そのイメージを現実のモノとして、つまり行為としてアウトプットすることだって可能なのです。
アートは五感に作用するものです。しかし、どうもインプットだけが五感に作用すると思われがちのような気がします。アウトプットだって、五感で作用するのがアートだと思います。
言語は「視覚」と「聴覚」に作用するものの一部ですよね。ビジュアルやイメージは「視覚」に対して作用します。言語に留まらない「音」は「聴覚」に作用します。触覚にだって、味覚にだって、嗅覚にだってアプローチしてよいのです。
アウトプットの手段は何も言語だけではありません。そして、多様なアウトプットの手段があることがアートの価値をつくっている一つの要素だと思います。
同じようにビジュアルを脳に取り込んだとして、言語ではなくビジュアルとしてアウトプットすると何が起こるか?、言語ではなく身体表現としてアウトプットすると何が起こるか?、さて、どうでしょうか?
「言語化」ばかり意識していると、そのほかの行為である「五感化」にも目が向かないような気がしています。せめて、「言語」ともう一つ「イメージ」というアウトプットの軸を持ってみてもよいのではないでしょうか。「イメージ」は言語の次にアウトプットしやすい手段だと思いますよ。
07.「行為としてのアート」がアート思考を形作る
ここまでの自己主張をまとめます。
【主張①】
アーティストの持つ「問うチカラ」を形作っているのは、「思考(問)」と「行為(解)」のサイクル。
【主張②】
現在のアート思考は「思考」に寄っているため、アーティストの問うチカラを体系立ててはいるが、そのままではアート思考を体得するには至らない。
【主張③】
アート思考を体得するためには「行為としてのアート」を折り込むことが必要。
これが、私の言わんとしていること。アート思考本を読んで感じたことです。
08.アートスクールが教えてくれた、「行為のとしてのアート」の可能性
と、ここまでお付き合いいただいた皆さま、ありがとうございます。どこの誰か素性も知れぬオッサンの戯言に付き合うなんて、なんて優しい方なんでしょう!(それとも、ヒマですか?)
で、そもそもそんなコトを偉そうに主張するお前はどこの誰やねん?という疑問にお答えします。いわゆる多くの人がイメージするアートをひたすら追求した人間でもなければ、アートをビジネスに活かす最前線にいる人間というわけでもありません。
そんな自分ですが「行為としてのアート」を経験したことがあります。人生においてそれほど長い時間ではありませんでしたが、この経験が自分の人生にとって大きなモノになりました。
その経験から、もしかすると、行為としてのアートを社会全体で育てれば、多くの人にとって「もっと大きな影響を与えるモノに出来るかも」という可能性を感じているのです。
「常にアート一辺倒ではない」自分だから感じた、アートの価値です。
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私は今からおおよそ10年前に、社会人向けの夜間アートスクールに通っていたことがありました。大阪にある「サンダヴィンチ アート&デザインスクール」(SANDaVINCI School of Art & Design)というアートスクールです。
関西在住の方は「サンダ」という文字列でなんとなく想像がつくかもしれませんが、兵庫県の三田市にもアトリエがあります。「サンダ」+「ダヴィンチ」ですね。2年弱ぐらい通っていたかな?、最後の方は半分スタッフにもなっていました。
このアートスクールの面白いポイントは、学ぶ領域が細分化されていないトコロです。一般的に専門学校とかアートスクールって「○○コース」みたいな領域が決まっていますよね。でも、このアートスクールは分野ごちゃ混ぜです。
月に2~3回のワークショップ(一日がかり)と普段の授業(夜間)でスケジュールが構成されています。その中でもワークショップはびっくりするぐらいノンジャンル。彫刻、陶芸、写真、鉄造形、現代アート、ギャラリー鑑賞、ガラスアート、イラストレーション、コラージュ、デッサン、ドローイング、植物、プロダクト、建築、照明、イラレフォトショ・・・などなど、本当に多様なジャンルの「表現」を実践します。
なぜこんな手法を取るのか。3つほど理由として挙げられていたと記憶しています。
①と②については分かりやすいでしょう。問題は③です。当時の私はこの「じわーっと染みてくる」という言葉の意味がイマイチ理解できていませんでした。いや、アートスクール側もそこまで明確に言語化できていたわけではないと思います。だからこその「じわーっと」という表現です。
ワークショップのテーマとして多かったものは「自分を表現する」というモノでした。自分という存在を考えるとは自己起点の表現の一丁目一番地でしょう。
自分を起点にした表現をするためには自分のことを掴んでいるからこそ表現に結び付く。あるいは、自分のことが掴めていないことを掴んでいるだけでも表現に繋がる。自分に対する「問」を立て「解」として表現する。まさに思考と行為のサイクルです。
そして、このようなワークショップが「多種多様なジャンルに渡って実践されていた」というところが最大のポイントです。
自己に起点を置いた「思考と行為のサイクル」を「多種多様な表現手法」から実践する。その価値は大きなモノがあります。
モノゴトを見るときに、一つの視点から見るだけではその一面しか見えません。だから実は、アウトプットの手段が「一つだけ」という状態は良くないと思っています。
例えばSNS一つとってみてもそう。アウトプットの手段として今まさにこの文章を記しているnoteを使うという方法があります。noteは長文を書くのに便利。でも、もっと端的にメッセージ化するチカラを身につけたいならtwitterも良いですよね。同じテーマを扱うにしてもnoteとtwitterでは表現の方法がまったく異なります。
とは言え、この両者は同じ「言語化」を舞台にした表現なので実はそこまで距離が離れているわけではありません。だから本当は「言語化」以外の表現方法も持つことが、より多面的なモノゴトの見方に繋がると思っています。幾つもの表現方法から一つの事象を見ると、まったく異なったモノの見え方・解釈が存在するものですよね。
サンダヴィンチのワークショップは「自分」をテーマにして「多様な手段」でそれを表現する。つまり、自分という存在を様々な視点から見つめ、問をたて、それを表現するのです。これを繰り返すこと、それこそが「じわーっと染みてくる」という状態に繋がっていきます。
自分という存在を様々な角度から見つめる
自分という存在を様々な手段で表現する。
この繰り返しが、自分という存在を「正しく認識」することにつながる。
ある表現をとおして見た自分は、つるっとした球体だった。
別の表現をとおして見てみると、表面はざらざらしていた。
また違う表現をとおして見ると、あったかかった。
表現方法が変われば、違う自分を見つけやすくなります。同じ表現、同じアプローチだと、同じ自分ばかりが見えてしまいます。「自己を起点にした問いを立てる」「問を解として表現する」、これらを実践するためには自己を正しく認識することが第一歩。
自己を正しく認識するから、自己と外界との関係性を見つめることができ、そこに対する違和感や興味が「問」というカタチを成し、行為という「解」に変換されるのです。自己を正しく認識するためにも、この「問」と「解」を多面的に行うワークショップは誠に理に適っている。
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では、10年前にそのような場に身を置いた自分はアート思考を体現できているのか?、答えは「現時点ではNO」です。
その理由は、この多面的な表現による思考と行為の連続を継続しなかったから。サンダヴィンチを卒業後は空間制作会社と幾つかの職を経て「フリーランスのプランナー」に落ち着いています。
その間、せっかく身につけた多面的な表現を実践してこなかった。「行為としてのアート」を継続しているわけではなかったのです。今から振り返るともったいない。
ここ数年、ビジョンドリブンな思考やデザイン思考、そしてアート思考などを学ぶにあたり「行為としてのアート」が持つ価値にようやく気付きました。ホント、ようやくサンダヴィンチが実践していたメソッドの価値に気付き始めたのです。10年以上前から時代の先端を走っていた、やっと時代が追い付いてきたのかな?、いや、まだ追いついていないか。
サンダヴィンチのメソッドは「アート思考」が一旦広まったものの「今一つ成果に繋がらない」という失望が広がったときにこそ、最も時代にフィットする手法なのかもしれません。そういう意味では、まだ時代の二歩ぐらい先かもしれない。
もしかすると、サンダヴィンチ自体がまだ自分たちのメソッドの価値に気付いていないかもしれません。最近はどんな運営をしているのか詳しくは聞いていません。自分が在籍していた頃とはちょっと変化しているみたいですが。だから、これだけ時代がようやくそのメソッドに追いついてくるのだから、それを活かしてほしいなぁ。今度、アイデアを提案しに行きます(笑)
09.行為としてのアートを実践するためには
さて、私が「行為としてのアート」に価値を持っていることは十二分に理解していただけたかと思います。共感するか・しないかは別の話題ですけどね。
でも、普通に聞くとちょっと難しいような気がしちゃいますよね。普段の生活を送る中で「多様な表現を実践する行為としてのアート」なんて、どうやって実践したらいいんだろう?
ここについては回答がありません。いや、むしろ適切な手段がまだ社会のなかに存在しないと言いますか、まだ世に存在しないものなのです。だから、作らないといけないのです。私はアート思考を体得するための「行為としてのアート」を実践する機会・場を作りたいと考えています。
それも、「アートから遠い人」が少しずつでも生活のなかに行為としてのアートを取り入れていく方法です。「アーティスト」や「クリエイター」と呼ばれる人ではないと自分のことを考えている人たちが、自分のための「行為としてのアート」を実践するための方法を考えたい。同志を募りたいのです。
「言語化」という手段については社会に十分に存在します。だから、できるだけ「言語の外」であったり「言語も含む」という手段を考えてみたいと思います。
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一つ、おススメの表現手法をご紹介しましょう。表現にまったく慣れていない方でもできるカンタンな「自宅で出来るセルフ ワークショップ」です。
□自分を表現するコラージュ
【用意するもの】
画用紙、ハサミ(カッター)、のり、処分してもよい雑誌を数冊
【手順】
①雑誌の気になったページや広告の一部をチョキチョキ切り取る
※この時点で作品のアウトラインは考えない、ただ好きなページや要素だけを直感で切り取る
②自分を一枚の画用紙に表現するならば?と考えてみて、先ほど切り取ったパーツをコラージュして貼り合わせる。
コラージュの良いところは完成したあとに「やった感」が出るところです。まったくシロウトな自身のアウトプットでも「それなりのモノ」に自分では見えます。で、外に見せる必要はありません。他人の評価にさらす必要はなく、むしろ自分だけで完結してしまって良いモノです。
大切なことは、作品が出来上がったときに「思考」と「表現」のそれぞれで「なぜ?」を考えてみることです。なぜ自分は○○な自分を表現しようと思ったのか?、自分の○○としてこのパーツを選んだのはなぜか?、なぜこのパーツの重ね合わせ方にしたのか?
これは、「視覚による表現」と「言語による表現」の複数を組み合わせたアウトプットの方法です。多面的な表現から自分に対して「なぜ?」を問いかけることで、自分という存在の輪郭が少しずつハッキリしてくることでしょう。
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そのほかにも実践するための手段は体系化されていないにしろ幾つか存在します。実は、アート思考本ではなく最初に紹介した「直感と論理を繋ぐ思考法」にもヒントがあるのです。この本は「思考法」とは銘打ってはいますが、デザイン思考の一つの要素である「手を動かす」ことも折り込んでいるので、超参考になること間違いなしですよ。
この本の著者、佐宗邦威さんは最初に紹介した「13歳からのアート思考」のあとがきを執筆されています。そこにあった一節が行為としてのアートの真理を示してたと感じましたので引用します。
あるいは、一般的な「アートの範疇」における表現に限らずともよいと思います。表現と言うと「絵」や「彫刻」などをイメージするかもしれませんが、それだけに留まりません。大切なのは「自己を起点にする」ことと「思考と行為のサイクル」のなかで実践することです。
これが踏まえられるなら、例えば「ランニング」も行為としてのアートに入ると言えるかもしれません。ヨガもそれに該当するかもしれません。
一般的に語られるその行為の目的は一旦横に置いておき、その行為に対して「自己を起点」として「思考と行為のサイクル」が成立していればよいのです。その「思考」とは「問」であれば尚アート思考的でしょう。
佐宗さんは「人生芸術の山脈」と表現しました。非常に腹落ちする表現だと思います。
10.改めて考える、アートする価値とは
アートが足りない。それは内発的動機が足りていない社会だということです。アートが最重要というわけではありません。内発的動機が足りている社会ならアートよりも優先されるモノがあるでしょう。いま、社会に極端に足りていないのが「個人」であり「内発的動機」です。
私はアート、デザイン、ビジネスの関係性を説明するときに以下のような表現を使います。
自己に対する行為としてのアート
他者に対する行為としてのデザイン
社会に対する行為としてのビジネス
この3本柱を程よいバランスで立たせることが、人生というテーブルを自立させるために必要な要素だと考えています。
他者と社会に対する行為は世の中に広まってきています。三本足のなかで「自らに対する行為」が不足していますよね。
そこを突破するものとして期待されているのが「アート思考」です。しかし、アート思考は、アーティストの創造プロセスにおける「思考」にフォーカスを当て過ぎている。アーティストの創造プロセスは「思考」と「行為」のサイクルによるもの。「行為」なきアートはその価値を十二分には使えてないかもしれません。
よって、「アート思考」を実践しようとすることによって起こる課題も予想できます。例えば、思ったほどの効果が出ない。案外、自分とは向き合えない。結果、アートって意味ないじゃん。という認識になってしまう。それは、「行為」を飛ばしてしまっているがために起こる事態だと思います。あくまで私の予想ですが・・・
という、少し先の未来に予想される「アート思考」の課題を突破するのは「行為としてのアート」だと考えています。
誰もが「実践できる」ものがアートの普遍性だと思います。アーティストにだけ「頼る」アートのあり方はアートの一側面でしかありません。(価値はありますが)
私は、「行為としてのアート」この「あり方」を考えて・実践していきます。一緒に考えてくれる人も、少しずつ募っているトコロです。
「行為としてのアート」ああ、ちょっと堅苦しいですね。もっと軽い言葉で表現しましょう。
Do Art!
みなさん、Do Artです!
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