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トルストイの歴史小説『戦争と平和』で描かれた戦争の不確実さと司令官の苦悩

19世紀のロシアを代表する作家レフ・トルストイ(1828~1910)は『戦争と平和』(1869)でナポレオン戦争(1804~1815)に巻き込まれるロシア人の貴族の人生を描いています。トルストイにはクリミア戦争(1853~1856)のセヴァストポリ攻囲戦(1854~1855)に将校として参加した経験があるのですが、『戦争と平和』の内容にもその影響を見出すことができます。

『戦争と平和』の3部3編2章では史実に基づき、敵に首都を明け渡すべきか否かをめぐって、ロシア軍の総司令官クトゥーゾフが苦悩している場面が描かれています。ここでその記述を紹介してみたいと思います。

1812年9月、モスクワの中心部から6キロメートルほど西にあるフィリという場所でロシア軍の総司令官ミハイル・クトゥーゾフ(1745~1813)は百姓の家屋を借り、作戦会議を開きました。モスクワを流れるモスクワ川の西岸に位置する場所です。

クトゥーゾフは、その直前に行われたナポレオン率いるフランス軍との戦闘(ボロジノの戦い)でロシア軍を指揮し、自軍が勝利を収めたと確信していました。しかし、間もなくしてロシア軍が被った損害も甚大であることが報告され、クトゥーゾフは自軍を立て直すために時間が必要であるという現実を突きつけられました。ちなみに、ボロジノからモスクワまでの距離はおよそ110キロメートルであり、1日20キロメートルの行軍速度で所要時間を見積もると1週間程度の距離です。

クトゥーゾフは無念な思いでフィリまで軍を後退させてきました。

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その後退行動は整然としたものであり、戦闘力を残してはいましたが、すでに進軍を再開したフランス軍を相手に勝算が見込めるほどではありませんでした。

クトゥーゾフはモスクワを背にして決断を余儀なくされました。自分の手元に残された兵力をすべて失うリスクを冒してでもナポレオンと再び戦うべきなのか、それとも軍の再建を優先してモスクワを放棄すべきかを、決めなければならなかったのです。

当時のクトゥーゾフの後退行動の是非をめぐっては、さまざまな議論がなされてきました。このことについてトルストイは『戦争と平和』の中で次のように述べています。

「戦争や戦闘の計画というものは、指揮官たちが、ちょうどわれわれが皆そうするように、書斎に座って地図を見ながら、これこれの戦いが起こった場合には自分ならこういう手を打つと言った風に想を練りながら作るものだ――人はそんなふうに思いがちである。そんなイメージに馴染んでいる人には、いろんな問いが頭に浮かぶことだろう――なぜクトゥーゾフは退却の過程でこれこれこういうことをしなかったのだろう、なぜ彼はフィリよりもっと手前で陣を構えなかったのか、なぜ彼はただちにカルーガ街道へと退却せず、モスクワを通り抜けて行ったのか、等々と。そんな発想に慣れている人々は、あらゆる総司令官が仕事をする際に常に直面する不可避的な条件というものを忘れているか、あるいは最初から知らないのだ」(邦訳、5巻20頁)

これは図上で考える戦争と、現実に起こる戦争のギャップを「摩擦」として表現し、両者はまったく異なったものだと主張したクラウゼヴィッツにも通じる議論です。後から考えれば、クトゥーゾフはもっと早い段階でモスクワの放棄を決め、適切な退路の選択が可能だったように思えます。しかし、それは総司令官が歴史を動かす決断を下すために耐えなければならない責任の重さを十分に考慮していないとトルストイは批判しています。

さらにトルストイは、実際に指揮官の立場にある人間がいかに決断しにくい状況にいるのかを考慮することも必要だと述べています。

「世の軍事学者たちは、クトゥーゾフはフィリの遥か手前の地点で軍をカルーガ街道へと向けているべきだったし、当時そのような提案をした者さえいたのだと、大まじめでわれわれに説く。しかし総司令官は、とりわけ困難な状況下では、一つどころか同時に何十もの提案を受けているのだ。そして戦術論やら戦略論やらに裏打ちされたそうした提案は、それぞれ互いに矛盾し合っているのである。総司令官の仕事は、単にそうした提案のうちのどれかを選べば済むと見えるかもしれないが、それさえ彼には不可能である。事件も時間も待ってくれないからだ」(21-22頁)

常に意思決定に追われているということがどういう状況であるかを説明するために、トルストイは次のような状況を想定してみるように読者に提案しています。

ボロジノから退却している途中でクトゥーゾフがカルーガ街道に退路を設定するように提案を受けていた時、ある部下の副官が馬で駆け付け、フランス軍と一線を交えるべきか、退却すべきかを直ちに命令するように求めています。それに続いて主計が指揮所に出頭し、どこに糧秣を運べばよいのかを質問し、病院長は負傷兵の搬送先を確認してきます。

ペテルブルクからの使者はモスクワの放棄を認めないという皇帝からの書簡を届け、クトゥーゾフの失脚を狙う軍人はあえて別の作戦案を提案してきます。周辺の地形を偵察してきた将校は、その前に偵察した将校と矛盾する報告を行い、スパイや捕虜もそれぞれ敵情について相反する情報をもたらします(22頁)。

このような出来事が立て続けに起こるため、総司令官は神経をすり減らしていくとトルストイは指摘します。このような意思決定者の心理を踏まえて戦争の実態を考えるべきであるという立場をトルストイは取っています。実際、このような状態で国家の命運を左右する決断を下すことは誰にとっても至難の業であり、後から見て退路の選択が不適切であったとか、防御陣地をもっと西に設定すべきだったなどという議論は軽率だというトルストイの見方には説得力があります。

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トルストイの作品で描き出されているクトゥーゾフは、作戦会議でモスクワをナポレオンから防衛することは不可能であることを認めながらも、なぜそのようなことになってしまったのかを自らに問い続けています。

「目下の彼にとっての問題とは、ひとえに次の事柄であった――『いったいナポレオンをモスクワまで来させてしまったのはこの私だろうか、だとしたら私はいつそれを行ったのか? その決定はいつなされたのか? 果たして昨日、私がプラートフに後退命令を送った時か、それとも一昨日の晩、私が居眠りをしながらベニグセンに指揮を委ねた時か? それとももっと前だったのか?……しかしいつこの恐るべき問題は決定を見たのだろうか? モスクワは放棄せざるを得ない。軍は後退させねばならないし、その命令を出す必要があるのだ』」(28頁)

ここでトルストイは、モスクワを放棄することへの総司令官クトゥーゾフの苦悩を巧みに表現しているだけでなく、戦争指導、あるいは戦略家としての実務が理論からは想像しがたいほど混沌としたものにならざるを得ないことを的確に表現していると思います。これは総司令官の描写であると同時に戦争の描写でもあります。

ちなみに、トルストイの作品では、クトゥーゾフが軍を退却させようとしている間に、モスクワは混乱を極め、クトゥーゾフがモスクワ防衛を決意したので、それに呼応して市内では武装してフランス軍を相手に市街地で交戦するように呼びかける宣伝ビラが飛び交うのですが、それはまた別の物語です。

参考文献

トルストイ『戦争と平和』 5巻、望月哲男訳、光文社、2021年

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