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ドイツのヒトラー政権は、いかにして国民を動員する準備を進めていたのか?

アドルフ・ヒトラー(1889~1945)は1933年1月にドイツで政権を掌握するまで、非党員を大規模に組織化し、軍事的目的に動員する基盤をほとんど整備できていませんでした。1933年4月にヒトラー政権は政治的に敵対していた既存の労働組合をすべて解散に追い込み、ロベルト・ライ(1890~1945)に労働者を再組織化する任務を与え、ドイツ労働戦線の総裁という地位を与えました。

しかし、当事者であるライはヒトラーの命令に戸惑い、「私は労働組合の運営を引き継ぐようにとの総統命令を受けたが、そのあと、どうすればよいのか、自分でやってみるしかなかった」と述べています(邦訳、カザ『大衆動員社会』99頁)。このことからも、ヒトラー政権が政権掌握後になってから、場当たり的に動員基盤の強化に取り組み始めたことが伺われます。

ヒトラー政権の下では数多くの団体が立ち上げられ、熾烈な縄張り争いを繰り広げたことも、事前に明確な構想がなかったことを示唆しています。ドイツ労働戦線は、ドイツ国農業会という別の団体と農業労働者に対する管轄権をめぐって争うことになりました。また、女性を組織化したドイツ婦人エンタープライズ、商店主を組織化した「闘う中産階級の会」、学生を組織化したドイツ学生会などの団体もあり、それぞれの団体がそれぞれの方法で団員の獲得を進めました。歴史的に見て軍事動員への貢献度が特に高かった団体はヒトラー青少年団でした。

10歳から18歳の青少年全員には、この団体へ加入する義務が課せられており、その根拠は1936年に制定されたヒトラー青年団法により定められていました。ヒトラー青少年団の教育訓練業務は総統に直属するドイツ国青少年指導者に委託されており、全国の学校に指導員を配置しました。職場で指導員は教員を監視しており、生徒を巻き込んで教員に集団暴力を振るわせることもあったので、教育を統制する手段としても機能していました(同上、102頁)。ヒトラーはヒトラー青少年団でスポーツを奨励し、知的教育を排除しました。その理由についてヒトラーは知識を与えると「青年を堕落させることになる」と説明しており、最終的には「死の恐怖にうち勝つことを学ばせるつもりである」と述べています(邦訳、ホーファー『ナチス・ドキュメント』117頁)。そのため、ヒトラー青少年団では、当初から体力の錬成に重点が置かれており、1937年からは小銃射撃の訓練を正式に取り入れるなど、軍事訓練の内容を充実させています。150万人の青少年がここで射撃術を学びました(カザ、103頁)。

1939年にドイツが戦争を始めると、ヒトラー青少年団はさまざまな場面で動員の実務を担いました。1940年だけで6万263名の女子団員が陸軍病院で勤務し、10万7185名が部隊の給食支援に駆り出されました。男子団員は各地で動員の対象者に召集令状の配達を行っており、ナチ党の親衛隊(Schutzstaffel, SS)に入隊する者も少なくありませんでした(同上)。青少年団の団員が18歳で親衛隊に志願した場合、親衛隊の人種委員会による人種的選好に基づいて仮隊員として入隊しますが、いったん国防軍に入隊して軍事訓練を受ける必要があり、その成績を踏まえて再入隊します。再入隊すると宣誓式、正隊員になれますが、その前にナチ党の世界観に関する特別教育を受けることが求められました(ホーファー、142頁)。ちなみに、戦争が末期になると、ヒトラー青年団の団員は国土防衛隊の隊員として、ソ連軍との戦闘に投入されています(カザ、103頁)。

労働戦線も無力だったわけではありません。1934年に労働戦線は、旧労働組合員、旧職員組合員、旧経営者連盟員を強制的に加入させ、彼らの給与収入から1.5%の組合費を天引きし、潤沢な収入を確保しました。その結果、労働戦線はナチ党でも特に潤沢な資金を持つ団体へ成長しています(同上、105頁)。ヒトラー政権の下で労働者は低賃金、長時間の労働を強制され、団体交渉もできなかったので、一部の労働者は労働戦線に対して不満を持っていましたが、それを抑えるためにさまざまな努力が払われました。労働戦線の下でコンサート、大衆演劇、映画、展覧会、旅行、ハイキングなどの余暇活動を展開しており、専用の列車や船舶を運行しました(同上、106頁)。

労働戦線は消費者協同組合を経営し、その傘下の建設会社を通じて住宅を提供することで、労働者を取り込みました(同上)。1938年にはヒトラー青少年団からドイツ国技競技会の運営を引き継ぎ、350万人以上が参加するスポーツ、生産技術、ナチ党の理論の競技会も開催されています(同上)。労働戦線は労働環境を美化する活動にも積極的であり、工場経営者に敷地の緑化や照明、換気設備の設置、カフェテリアの設置などを要求しました(同上)。このようにして労働戦線は労働者を取り込み、経営に対する干渉を強めていきましたが、軍事動員との関連で注目すべきは、工場の労働者を徴用する仕組みを取り入れたことです。

1935年、労働戦線は産業隊を編成し、それぞれの工場から選抜させた労働者に6か月の訓練を受けさせました(同上、107頁)。同年に労働戦線は労働者に労働手帳を交付し、動員対象者を把握し、1938年から実際に彼らを徴用し始めています。ドイツの西部国境に沿って建設された要塞、ジークフリート線の建設作業には、労働戦線によって徴用された労働者が投入されていました(同上)。労働戦線は労働者の抵抗を実力で抑圧する姿勢を明確にしており、戦局が悪化していた1944年には実際に4万2505人の労働者を警察に逮捕させました(同上、108頁)。

1933年以降のドイツでヒトラー政権が動員基盤を強化するために実施したことは、飴と鞭(Zuckerbrot und Peitsche)という言葉で端的に表現できるでしょう。軍事動員を国民に受け入れさせるために、ナチ党は、さまざまな団体を通じて平素から組織化を図っており、動員の対象者を捕捉し、また必要な訓練を施していました。特に青少年と労働者を通じた組織化は重要であり、この二つの団体の活動を通じてヒトラー政権はドイツの労働力を戦争遂行に必要な人力を確保することができました。

見出し画像:Bundesarchiv, Bild 146-1976-008-05

参考文献

ワルター・ホーファー著、救仁郷繁訳『ナチス・ドキュメント』ぺりかん社、1982年
グレゴリー・カザ著、岡田良之助訳『大衆動員社会』柏書房、1999年

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