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【映画解釈/考察】『寝ても覚めても』/『ドライブ・マイ・カー』「不条理な世界の存在として、それでも言葉の世界で生きようとする者たち」

『寝ても覚めても』(2018)濱口竜介監督
『ドライブ・マイ・カー』(2021)濱口竜介監督

『ドライブ・マイ・カー』を扱った以前の記事で、『ドライブ・マイ・カー』は、不条理な世界を認めざるを得ない一方で、それでも言葉による新たな物語を創出して生きていく人々を描いた物語であるという解釈をしました。

 そして、『ドライブ・マイ・カー』を見た後、再度、『寝ても覚めても』を見返してみると、非常に多くの共通点を発見することができ、『寝ても覚めても』は、『ドライブ・マイ・カー』に直接影響を与えている作品であると、より強く感じます。

 しかも、両方とも、有名作家の小説が原作になっているにもかかわらず、濱口竜介監督は、不条理演劇の戯曲を利用して、大胆に原作の構成を変更しています。

 今回は、映画『寝ても覚めても』の解釈および考察を、『ドライブ・マイ・カー』と比較しながら行いたいと思います。
 
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チェーホフの『三人姉妹』と『ワーニャ伯父さん』

まず、大きな共通点として、チェーホフの戯曲が両作品に登場しています。

 『寝ても覚めても』では、マヤが演じる『三人姉妹』が、『ドライブ・マイ・カー』では、家福が舞台監督を務める『ワーニャ伯父さん』が登場します。

特に、『ドライブ・マイ・カー』においては、『ワーニャ伯父さん』が、映画の主題や構成に効果的に使われています。

 前の記事で書いたように、家福は、感情をこめてセリフを読まないように、高槻たちに、朗読を繰り返し要求します。

 これは、ワーニャたちが、不条理な世界に翻弄され、不条理な世界を受け入れざるを得ない状況の中で、それでも、言葉に頼って生きていかなければならない人間だからです。

 だからこそ、力強いセリフの言い回しを、決してしてはならないのです。

 そして、この内容に近いやり取りが、『寝ても覚めても』の『三人姉妹』が登場する場面にも、見られます。

 このチェーホフの『三人姉妹』は、次々に起こる不条理によって片田舎から出られなくなってしまった三姉妹が主人公の物語です。

『寝ても覚めても』の映画の中では、朝子たちが食事を作っている間に、亮平たちが見ている録画されたマヤが演じている舞台作品として、登場します。

 そして、途中で、マヤが、突然、映像を止め、その直後、串橋が突然帰ると言い出します。この一連の流れ自体が、不条理演劇となっています。

  ここで、重要なのは、串橋が帰ると言い出した理由です。串橋が、マヤの演技について非難した後に、自ら棒読みの演技を実演して見せます。

 亮平に促され、そのことを一旦、胡麻化して謝罪しますが、これは、『ドライブ・マイ・カー』の家福と同じ考えを当てはめることができます。

  不条理に打ちのめされている人物を演じているにも関わらず、マヤは、力強い言葉の言い回しをしていまっているからです。

 串橋は、我を失っている状況、または、言葉を支配できていない状況を表現すべきだという考えていると読み取れます。

不条理演劇としての『寝ても覚めても』

  既に何回も、‘不条理’という言葉を繰り返しているように、映画『ドライブ・マイ・カー』のストーリー自体が不条理演劇であり、映画『寝ても覚めても』は、それ以上に不条理演劇が徹底されています。

 それは、少年たちが道路で花火をしていて、朝子がそれに驚く最初の場面から既に始まっています。

  そして、突然のバイク事故、突然の失踪、ラジオから流れる無差別殺傷事件のニュース、震災、そして突然の再会、突然の雨といった不条理が次々と朝子そして亮平に襲いかかります。

  これには、世界の不条理と人間の不条理の両方が混在していますが、『寝ても覚めても』おいて、中心となっているのが、特に、人間の不条理です。

 そして、その中で、特に、愛に関する人間の不条理が主題になっています。

不条理な存在としての愛

  朝子と麦との恋愛は、突然の出会いによって始まります。

 いわゆる一目惚れですが、これは視覚(感覚)を通して、無意識によって、突然現れた感情(存在)です。

 愛という感情そのものが、無意識下から突如、出現する存在であると言い換えることができます。

  朝子と麦の恋愛は、少年たちが爆竹を発火させ逃げていくと同時にスタートします。

つまり、この描写から、‘愛の存在自体が、不条理そのものである’と、解釈することができます。

  そして、さらに、突然、麦が朝子の前からいなくなり、朝子は大阪から東京に移住します。

  そこで、朝子は、また、麦にそっくりな亮平に突然、遭遇し、亮平と視線が合わないように、亮平を必死に避けようとします。

 これは、朝子の無意識下に潜んでいた感情が、止められなくなるのを、必死に防ごうとしているからです。

 しかし、結局は、震災による不条理の中で、偶然、視線が合い、感情が止められなくなってしまいます。

  つまり、朝子と亮平の愛も、不条理によって生まれいるのです。

 そして、人間の不条理から生まれる愛の本性が、麦の再登場によってさらに顕在化していきます。

二人の朝子の反転

 そもそも、このストーリーで、最も気になるのが、顔が瓜二つな麦と亮平の関係は、一体何を表していうのかという疑問です。

  まず、最初に頭に浮かぶのが、ドッペルゲンガーの可能性です。

  ただ、そこで問題になるのが、ドッペルゲンガーとは、もう一人の自分を見てしまう現象であるという点です。

『寝ても覚めても』においては、基本、朝子の視点から二人の存在を見ています。

  このことを考える上で、重要になるのが、朝子が「麦は亮平ではない。分かっていなかった。」と言って麦に別れを告げる場面です。

  原作の小説では以下のように描かれています。

十年前の私と今の私が同時に麦を見ていた。...違う、似ていない。この人は亮平じゃない。...暗闇を背景に鏡となった窓ガラス映ったわたしを、わたしは見た。そのわたしも、写真のわたしとは、違うわたしだった。

柴崎友香『寝ても覚めても』(小説)

  ここから分かるのは、麦と亮平を通して、二人の朝子が、表現されている点です。

 もう一つ、映画の中で、朝子が、麦に向かって言っている、重要な表現があります。

わたしは、まるで今夢を見ているような気がする。違う。今までの方が全部長い夢だったような気がする。

濱口竜介監督『寝ても覚めても』(映画)

  そもそも、ドッペルゲンガーを扱った作品の多くは、ドストエフスキーの『分身』に代表作されるように、無意識下の自分を見ているという解釈が一般的にされます。

  そして、この映画の主題である、人間の不条理を、意味や本質を求める世界(象徴界)に反して、無意識の欲動(現実界)が突発的に起こることから生じるものとアルベール・カミュたちは、定義しています。

  つまり、2人の朝子とは、意識下の朝子と無意識下の朝子と解釈することができます。

 フロイトで言えば、朝子のエス(イド)と超自我であり、ラカンで言えば、朝子の現実界と象徴界を表象したものであると解釈することができます。

  さらに、”不条理の中で生まれる愛”とは、”無意識下にあるエス(現実界)が突発的に出現することによって生まれる愛”であると言い換えることができます。

したがって、上記のような夢の例えは、無意識下(エス/現実界)の朝子と意識下の朝子(超自我/象徴界)が反転する様を、表現したものと解釈することができます。

 これは、『寝ても覚めても』の題名の回収にも繋がっています。

  また、冒頭に出てくる牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』 の双子の写真も、自己(象徴界)と他人(現実界)と読み取ることもできます。

麦(エス/現実界)

  麦は、エス(欲動)的な行動が、目立つ人物として描かれています。

 それは、急にオーロラを見たいと言って、朝子の前から消え、そして、朝子が手を振っていたのを見て、急に朝子を迎えに来る行動からも明らかです。

 これは、同時に、朝子のエス(現実界)の出現を表象したものであり、そもそも麦の存在自体が疑わしいような描写もなされています。

 たとえば、麦が、朝子と亮平の家に迎えに来る場面が、これに当たりますし、麦がテレビの中の人になってしまう設定にも同様の計算されているように思われます。

  また、麦の出現時に必ず流れる音楽(効果音)がありますが、これも、前述の通り、同時に、朝子のエス(現実界)の出現も表象しています。

 そのため、朝子が麦と別れて(麦が消えて)、亮平の元に帰るときにも、朝子のエス(現実界)の出現の表象として、この音楽(効果音)が流れています。

亮平(超自我/象徴界)

 一方、亮平は、超自我(象徴界)を表象している人物として描かれています。

 それは、亮平は、言葉を多用する人物として描かれていることから分かります。言葉が少ない、朝子や麦とは対照的な人物です。

  たとえば、写真展の入場求める際は、架空の物語を創造したり、マヤと串橋の不条理な喧嘩を言葉によって収めます。

  そしてこの映画の中で、小説にはない、濱口の思い入れが感じられるのは、不条理な震災によって心を痛めた人たちを、言葉によって慰めている点です。

  例えば、怒鳴る通行人や座り込む人を言葉によるコミュニケーションによって癒しています。

  そして、だからこそ、その最大の表現として、亮平と朝子は、被災地を訪れて、言葉によるコミュニケーションを積極的に行うわけです。

また、映画と小説の大きな違いとして、車のシーンが多用されています。これは、『ドライブ・マイ・カー』に繋がりますが、車は移動手段でありコミュニケーションを表象する存在です。

  興味深いことに、車の中では、亮平と麦の言葉数が逆転します。だから、車を降りた後に麦に別れを告げます。麦と一緒だと世界(海)が見えないからです。

  それは、また、亮平のいる言葉の世界(象徴界)によって、麦の喪失(不条理)が癒やされていたのです。

  つまり、前述の夢の例えは、言葉の世界(象徴界)にいる亮平に守られることで、幸せな夢を見て暮していたと解釈することができます。


 しかし、麦の存在が消えたとしても、そもそも亮平と朝子との愛も、不条理の中で生まれた存在であり、そこには、潜在的な欠陥が存在しています。

イプセン『野鴨』と『寝ても覚めても』

映画 『ドライブ・マイ・カー』のチェーホフ『ワーニャ伯父さん』と同様に、映画『寝ても覚めても』を読み取る上で、最も大事な鍵になっているのが、ヘンリック・イプセンの戯曲『野鴨』です。

 このイプセンの『野鴨』が登場する場面も、一貫して不条理演劇の一部として表現されていて、『野鴨』の舞台は、震災の発生によって中止になってしまいます。また、亮平の前に、舞台『野鴨』の看板が足元に落ちてきて、亮平が看板を戻す場面も、この映画での基本的な構図が、徹底されています。

『寝ても覚めても』との関連を考察する前に、まずは、『野鴨』のあらすじを大まかに要約します。

 妻のギーナと娘のヘドヴィグと幸せに暮らしているヤルマールのもとに、ある日、幼馴染のグレーゲルスがやって来て、ある真実を告げます。

  その真実とは、妻のギーナが、結婚以前に豪商であるグレーゲルスの父親と関係を持っていて、しかも、ヘドヴィグの父親が、実は、グレーゲルスの父親あるというものです。

その真実を告げたことで、ヤルマールの幸せな家庭像は崩壊し、ヤルマールは、自ら家を出ていこうとします。

 そこで、娘のヘドヴィグは、父親への愛情を示すために、ヤルマールの父親であるエクダルの銃を使って、可愛がっていた野鴨を殺そうとしますが、することができず、自らを撃って、犠牲となってしまいます。

 この戯曲『野鴨』は、グレーゲルスの”虚構の世界に気づかないことよりも、真実の世界=不条理な世界を知ることの方が正しい”という正義感が、より大きな悲劇(不条理)をもたらすという、不条理演劇として、一般的には、捉えられています。

しかし、『寝ても覚めても』のラストから考えると、ヤルマールが、犠牲になったヘドヴィグの意思を尊重して、妻のギーナと共に生きていくことを受け入れたことを、濱口監督が、重要視していることが分かります。

  ここで、『野鴨』と『寝ても覚めても』の登場人物の相関関係を対応させてみると、ヤルマールは亮平、ギーナは朝子、グレーゲルスの父親は麦、そして野鴨は猫の仁丹に、相当すると考えられます。

 それでは、グレーゲルスは誰に相当するのかと考えると、朝子と麦が付き合っていたこと、明らかにする人物がふさわしくなり、春代がそれに該当します。

  原作の小説では、春代は、マヤ同様に、亮平を捨てた朝子に対して、絶縁を通告していますが、映画の方ではむしろ応援や唆しをしているように感じられます。

  そして最も重要なのが、ヘドヴィグに当たるものでが何を指しているのかという疑問です。

  ヘドヴィグのような犠牲者は、『寝ても覚めても』の中には、出ていませんが、一応、麦は消えています。

  まずは、ヘドウィグがどのようなものを表象しているのかを考えると、愛の象徴であると言えます。

  虚構としての愛は、二人が愛し合っているという共同幻想(想像界)によって成り立っています。

 この共同幻想(想像界)は、象徴界の言葉によって作られたものです。

  朝子の場合は、亮平の優しさ(象徴界の言葉)=共同幻想によって幸せなの日常は、守られていました。

そして、ヘドウィグの自殺は、この共同幻想(想像界)の消滅を意味します。

では、なぜヘドウィグが犠牲になるかというと、愛が、そもそも不条理(現実界)から生まれたものであるからです。

 現実界は象徴界の言葉では説明できない存在であり、だからこそ、共同幻想(想像界)には潜在的な欠陥があると言えます。

  しかし、『野鴨』のストーリーで、濱口監督が重要視しているのは、一度壊れた共同幻想が、新しい言葉によって、新たな共同幻想(犠牲になったヘドヴィグの意思)として、復活している点です。その結果、ヤルマールたちは夫婦関係を継続しているのです。

朝子の言葉の世界(象徴界)で生きる決意

 これに対して、朝子は、「亮平とただ一緒に生きていきたい」という言葉によって新たな共同幻想を創出します。それによって亮平は、朝子を家の中に入れています。

 ただ、最後の場面では、二人は視線を合わせず、川を眺めています。

 亮平は、川(不条理な世界)を汚いと表現しますが、朝子は川(象徴界)はきれいと言い直します。

 これは、二人の不条理(現実界)から生まれた愛の共同幻想(想像界)を破棄し、不条理な世界(現実界)を受け入れた上で、言葉よって創り出される象徴界で、生きていくという朝子の決意を表していると解釈できます。

朝子は、亮平にその言葉を伝える前に、岡崎の家を訪れています。原作の小説では、岡崎は病気になっていません。岡崎と母親の栄子は、その不条理な状況を受け入れ、共同で言葉を生み出す人々として描かれています。

これは、『ドライブ・マイ・カー』における『ワーニャ伯父さん』の最後にも一致しています。つまり、不条理を受け入れてもなお、神話を守り、語ることをやめようとしないソーニャの決意表明と同じ結末です。

 また映画のラストで、みさきは、家福の車と共に、新たな言葉の国で、新しい生活をスタートさせています。

濱口竜介監督は『寝ても覚めても』と『ドライブ・マイ・カー』を通して、不条理な世界を受け入れてもなお、新たな物語を創り生きていく決意をする人々を描こうとしたのではないかと思われるのです。


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