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【映画解釈/考察】『アメリ』(2001) 「ルノワールの絵画とフーコーの〈類似〉→〈表象〉→〈人間〉(アメリの視線の先とアメリの存在が街に浮かび上がる特異点 ) 」

『アメリ』(2001) ジャン=ピエール・ジュネ監督

 本作は、『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』のジャン=ピエール・ジュネ監督のラブストーリーです。

 公開当時は、ブラックユーモアとダークファンタジー色が強い前作2つのイメージとは少し違い、肩透かしを食らった感じでしたが、本作も芸術的な完成度が高いエンターテイメント作品なっています。

  もちろん、本作で一躍、世界的に有名になったオードレー・トトゥの魅力に支えられている作品でもあります。

  そして、アメリの恋人役ニノを演じたのは、ヴァンサン・カッセル主演『憎しみ』の監督でも有名なマチュー・カソヴィッツです。

  そして、フランスのアニメーション映画「失くした体」(2019)の脚本家ギョーム・ローランの脚本作品でもあり、脚本がよく練られています。

  約20年前にミニシアター系映画として大ヒットした本作を、以下に考察します。 


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1  ルノワール『舟遊びをする人々の昼食』とアメリの〈類似〉としての存在


  この作品で重要なツールになっているのが、登場人物のレイモンが模写するピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作『舟遊びをする人々の昼食』です。この絵には、ルノワールの友人たちが描かれていますが、絵の中のほとんどの人物が、しっかりと特定されています。

  そして、この絵をよく見ると、大体の人が気づくと思いますが、楽しそうな雰囲気とは対照的に、それぞれの登場人物の視線が、ほとんどかみ合っていません。

  例えば、右下には、印象派の作家たちのパトロンで、自らも作家であるカイユボットが描かれいます。その彼の視線は船上の人々ではなく、川のボートに向けられていると言われています。

   同様にして、映画の中に登場する人々、特に、アメリが働くカフェ「ムーラン」に集う人々や、アメリが住むアパートの住人たちにおいては、互いの視線や会話がほとんどかみ合っていません。

  そして、この絵の中で、特に重要なのが、ほぼ中央に描かれている女優のエレーヌ・アンドレです。この絵の中でただ一人、正面を向いてこちら側の世界を見つめています。つまり、その絵の登場人物の中で、一人だけ違う世界を見ているかの様子なのです。

  まさに、この女優こそが、アメリの現在の状況を表していたわけです。



  そして、アメリが、そのような状況に陥った理由(ストーリー)が、映画の冒頭で、コミカルに語られています。

要約すると、アメリは、父親から心臓に異常にあると勘違いされたことで、学校にも通わず、神経質で内省的な両親のもとで教育を受けたため、人とのコミュニケーションをほとんど持たないまま、大人になってしまったというストーリーです。


  その結果、アメリは、22歳になっても、人と上手く接することが出来ず、空想ばかりしている女性として、物語の冒頭に登場します。

  それは、ドン・キホーテのような存在で、哲学者ミシェル・フーコーの言葉を借りれば、彼女は、現実の世界を自分の世界(空想)に当てはめるだけの〈類似〉の世界に生きている状況なのです。  










2  アメリのおせっかいと〈表象〉として浮かび上がるアメリの存在


  ある日、偶然、ダイアナ妃の事故のニュースをきっかけにして、アメリの部屋に隠してあった、以前住んでいた少年の宝物を発見します。

  そして、持ち主の捜索を、突然開始し、おじさんになっていた少年に、何とか返すことに成功します。

その宝物は、彼にとっては、良い思い出を想起するものではなかったのですが、彼女のイメージとは違った回路で、彼の人生を、偶然、軌道修正をすることになります。そして、偶然、他人の人生を軌道修正したことが、きっかけで彼女を新たなステージに押し上げます。

つまり、彼女が偶然、彼の人生を変えたこと(思い込み)が、特異点となり、アメリの存在自体が、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の表裏が一致し、〈表象〉(シーニュ=記号)として、現実の世界に現れ始めたのです。



 そこから、アメリは、他人の軌道修正に励むようになります。

   まず、不慮の事故以来、家に閉じこもったままの父親のために、母親の代わりとして、父親が大事にしていた庭のドアーフを持ち出し、世界各国を旅するドアーフの写真を送ることで、父親を閉じ籠りの生活から解放します。

  そしてある時は、視線がかみ合っていないたばこを売るジョルジェットと元恋人のジーナを監視するジョゼフの恋の橋渡しをします。

 またある時は、食料品店の主人のコリニョンに毎日馬鹿にされているリュシアンに代わって、コリニョンの部屋に忍び込み、お仕置きを代わりに行い、そのことで、リュシアンを憂鬱な生活から解放します。

  またある時は、駆け落ちした元夫をまだ愛しているアパートの管理人には、偽の元夫からの手紙を作成して届けることで、深い悲しみから彼女を解放します。  


 このように、アメリは、次々と、他の人の軌道修正を成功させますが、それだけでは、アメリ自身の絵の中の女優のような状態から脱却するまでには至らないのです。

  なぜなら、彼女は、現実の世界に〈表象〉として現れただけで、この世界に〈人間〉として存在していないからです。

  そのため、アメリは、まだ、あの絵の中の女優と同じで、誰とも視線を合わせることができずに、孤独からは解放されていません。  



3 フィルター越しの恋から〈人間〉の世界(街)に現れるアメリの存在





 そして、後半はアメリの存在が、〈表象〉から〈人間〉に変わる過程が、ニノへの恋を通して、パリの街の魅力とともに描かれています。

 アメリの遠回りすぎる行動が、一見、奇妙で可笑しいように見えますが、アメリを通して、絵画の中の女性のように、できるだけ現実の世界の人から視線をそらし、それでも、愛する人がいつか自分を見つけてくれるのを待つ女性の葛藤を、繊細に描いていたことが、この映画が、女性の絶大な共感を得た最大の理由ではないかと思われます。

 特に、ガラス越し、窓越し、レンズ越し、写真越し、テレビ越し、電話越しなどの多くのフィルター装置が登場し、アメリと現実の間に何かを挟む構図が徹底されています。

 また、アメリとニノを結び付けたのが、証明写真の撮影機で、追っていた謎の男が撮影機のメンテナンスを行う人だったのは、とても寓意的でよく脚本が練られています。


 そして、ついに、ありのままのアメリ自身を見つけてくれたニノと結ばれることで、アメリの存在が街の中の〈主人公〉として現れ、颯爽と駆け抜けていく場面で映画が終わります。


 この映画『アメリ』は、マイケル・ウインターボトム監督の『ひかりのまち』(原題wonderland)のように、誰しもが多少なりとも現実的な世界で感じている違和感や孤独感を解放をしてくれる力を持っている、そんな映画だと思うのです。 


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