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❖足元美術館XXⅠ(記録の努力や信念が揺るぎない記憶を作り出す)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年4月29日)

いつからここにあったのか。家の前に一冊のノートが落ちていた。
砂埃を相当かぶってしまっていて、かなり前からここに落ちているように思えるかもしれない。
しかし、少なくとも今日の朝はなかった。
私が朝、玄関を出て、仕事に向かうときにはなかったものである。
そして私が家に戻ってきた昼過ぎ、家の前にノートはあった。
ということは長くて5時間くらいか。
ラオスは砂埃が相当舞うので、大抵のものはわずかな時間で砂まみれになってしまう。

このノートも見事に砂まみれだが、びっしりとラオ語が書かれているのははっきり分かる。
ただし通算1年以上もラオスに住んだことがあるのに、私はほとんどラオ語が分からない。
それでも、そのノートのラオ語の並びから、それがいいかげんな気持ちで書いたものではないことは何となくだが分かる。ラオ語が持っている柔らかい曲線によって、地面は美しいデザインで彩られているようだった。

単なるメモだとか、いたずら書きならば、こうも整然と文字が並ぶことはないだろう。
まあそれは文字の並びだけで判断した脆弱な根拠ではある。
だからもしかすると書かれている内容は大したものではないかもしれない。
それでも、そのノートの持ち主がいいかげんな性格ではないことは何となくだが分かる。

せっかく丁寧に記録したノートだが、今は無残な姿になっている。
持ち主が見つけたならば多分悲しむことだろう。

かといって見つけられなかったならば、せっかくの記録が失われていて、それはそれで悲しいだろう。
確かに記録媒体としてのノートが失われたことで、ノートというものの物体的価値、すなわちハードとしての価値は持ち主の元には無い。

だがこれだけ丁寧なノートなわけだから、しっかり覚えようという信念があったと思う。そしてしっかり覚えようと努力していた証でもある。だから、ノートというものの情報的価値、すなわちソフトとしての価値は持ち主の元に確実に生き続けていると思う。

「記録」は失われたかもしれないが、「記憶」は失われていない。

「記憶は精神の番人である」
これはイギリスの劇作家シェークスピアの言葉である。記録というものは情報を「量」または「モノ」として蓄えてくれるが、記憶というものは情報を「質」または「ココロ」として保ってくれるものである。前者よりも後者に、熱量や体温のようなものが宿っていると思う。だからシェークスピアも、記憶が精神(ココロ)を守っていると考えたのではないだろうか。

ノートの持ち主のココロの中にも、努力・信念を伴って情報が生き生きと存在し続けているはずである。

ちなみに「心(心臓という意味も含めて)」はラオ語で「ຫົວໃຈ(huachai、フアチャイ)」という。そしてタイ語では「หัวใจ(フア ジャイ)」になる。

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