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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(1枚目とエーリッヒ・フロム)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、大学時代にパソコンで描いた自分の作品。自分のSNSのアイコンとして長い間活躍してくれている。学生当時、パソコンで気まぐれに絵を描いていた。

タイトルが先に決まって絵を描くこともあれば、絵のイメージが先にあり具現化されてからタイトルを決めることもある。これは後者のパターンで、タイトルは後に付けた。

昔から風景を描くのが好きで、中でもたくさんの木を描いた。そのうち、自分の頭の中に浮かび上がる木を具現化することも増えた。

この絵は、地球全体を俯瞰して、様々な木が伸びていき地球を覆うような思いで描いた。木々が伸びていくときの枝分かれの様子の中に、自然界の恣意的ではない規則性や法則性が感じられ、それに惹かれる。人間がいかに論理や理性を用いて、物事を様々な角度で分析したり、様々な場合に分解したりしてみても、自然界の枝分かれの見事さには敵わない。

ドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムの言葉を借りるならば、「人間が完全に自然から離れることはない。あくまで人間は自然の一部だ。」だろう。人間はあくまでも自然の一部として生じた存在である。だから、自然全体の調和の中で完全な姿で成立する規則性や法則性について、自然を離れて人間世界の中でそれを再現しようとしても無理があるのは当然である。

しかし、人間は自然界の一部を分有しただけの不完全な存在では終わらない。自然から離れて、自然を利用してきた。その利用が行き過ぎた結果、破壊も加速した。そして浄化作用では補いきれない不可逆的な破壊行為の深刻さに気づき始めた。だから傲慢にも思えるが、自然環境の保護に乗り出した。純粋な罪滅ぼしの気持ちなのか、自分たちの更なる繁栄のための打算の産物なのか、動機は一様ではないだろうが、とにかく自然環境の保護に乗り出した。

フロムは先ほどのように人間を自然の一部と捉えつつも、次のような表現で、人間の特性を示している。
「人は自然の変わり種として生まれ、自然の中にありながら、しかしそれを超越しようとしている。」

私のかつての作品は、明確にフロムを意識していたわけではないが、自然の一部の人間と、自然を覆うような人間の二面性はイメージしていたと思う。
この作品のタイトルは「ECO EYE」。
中央の地球から伸びていく木々たちを含めた様子を俯瞰したとき、地球は人間の瞳のように、木々の枝分かれは目の中に張り巡らされる毛細血管のように思えた。その人間の目が現在では地球全体の様子を見つめて、環境保護に繋がっている。そんなイメージからタイトルをつけた。
今後も自分が描いたものや、先人が生み出した美術作品を題材にしながら、それを哲学と組み合わせて探究しようと思う。

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#つれづれ   #哲学   #美術   #オンライン展覧会
#エーリッヒフロム #自然と人間   #環境保護

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