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【小説】 向日葵畑 

 仕事が夏季休暇に入ると小学五年になる息子と二人きりで過ごす時間が増えた。この家で家族と呼べるものは俺と、そして息子の陵介の二人しかいないから当然といえば当然だ。
 今振り返ってみるとまるで笑い話しだが、妻がこの家を出て行く時、陵介には目もくれず飼い犬だけはさぞかし大事そうに脇に抱えて持って行った。
 新しい家族に紹介するから、そう言っていた。
 離婚当時はまだ小学三年だった陵介は、俺から見ても我慢強い子供だった。
 母親と別れなければならなくなった大人の事情で寂しい思いをさせることを詫びると、陵介は縁側から外をぼんやり眺めながらこう言った。

「お母さんいない奴なんていっぱいいるし、別に平気だよ」

 その言葉に、救わなければならない俺の方がかえって救われてしまった。
 母親のいない男二人の生活だったが、いつも陵介は気丈にふるまっていた。時にカラ元気に見えることもあったし、夜中に一人で泣いている声を聞いたこともあった。何も出来ない自分の不甲斐なさを申し訳なく思う事もあったが、陵介はただの一度さえ俺と、母である今となっては元妻を責める言葉を吐いた事がなかった。

「なぁ、新しいお母さん欲しくないか?」

 先日何の気なしにそう訊ねてみると、陵介はテレビ画面に目を向けたまま笑いながらこう言った。

「父さんがいれば別にいいよ。それに、父さん臭いからモテないでしょ」

 その言葉に、俺は「まぁな」と苦笑いを浮かべて返すしかなかった。
 四十をとうに越えた男が今さら恋愛をするのも気が引けたし、別れた妻の事を思うとそうする気持ちにも腰が引けた。
 妻には新しい旦那の連れ子が三人もいて、俺が知らない間に子供達に「ママ」と呼ばせていたらしかった。

「陵介にも本当は「ママ」って呼んで欲しかったの。母さんって、そんな呼び方って古いじゃない? NHKの朝のドラマじゃないんだから」

 最近喋り始めたとかいう他人の子供の頭を撫でながら、そう言って元妻はテレビ電話の向こうで微笑んでいた。いや、あれはきっと嘲笑っていたのだろう。

 陵介と二人で昼間の再放送アニメを眺めていると、久しぶりに元妻から電話が入った。

「もしもし?」
「宏太、久しぶり。陵介は元気してる?」
「あぁ、もう五年生だからな。背はだいぶ伸びたよ」
「そう。あのね、久しぶりに会えないかなーって思って」
「会えないかなって、陵介に?」

 俺がそう呟いたと同時に、テレビに目を向けていた陵介の肩がピクッと動いた。

「会うって言っても何処で会うんだよ? 子供も夏休みで家にいるんだろ?」
「ねぇ、私考えたの。うちの子供達と陵介を会わせてあげて、本当の兄弟みたいにしてあげられたらみんなが幸せなんじゃないかって」
「何言ってんだよ……勝手な事言うなよ」
「出て行ったのは私だから、勝手なのは分かってるわよ。でも、考えてみて頂戴」
「そっちのと会わすっていうのは……それは反対だよ」
「なんで? どうしてよ? 陵介だって喜ぶわよ、きっと。あの子、兄弟いないんだもの」
「……とにかく、会いたいならまずは母親として会ってやってくれよ。そっちのは無しでさ」
「分かったわよ。とりあえず、一度会わせて頂戴」

 今さら捨てて行った自分の子供に、他人の子供を会わせたいだなんて、元妻は一体何を考えているんだろう。
 ほとほと呆れそうになって電話を切ると、陵介がすぐに声を掛けて来た。
 その目がきらきらと輝いているのが分かって、なんだか申し訳ない気がしてしまった。

「父さん、今の電話って母さんから?」
「あぁ、うん。なんだか、こっち来るみたいでさ」
「会えるの?」
「うん、そうだな……会いたいか?」

 普段は寂しさを押し殺しているんだろう。陵介は喜びが隠しきれない様子で握り拳をテーブルの上でぶんぶん、と振りながら首を縦に下ろす。

「わかった。じゃあ、何処で会うか決めとかないとな」
「うん。ねぇ、母さんいつ来るの?」
「まだ決めてないけど、父さんが夏休みの間には」
「じゃあすぐ? すぐ来る?」
「うん。決まったらまた教えるよ」
「わかった」

 こんな瞬間はいつも、父親だけでは埋められない寂しさがやはり存在することを嫌でも実感してしまう。
 それだけに元妻には陵介を連れて行ってやって欲しかったとも思うし、捨てて行った事を思うと陵介が不憫で仕方なかった。俺達の二人の家族は、いつも何処かから生ぬるい隙間風が吹き込んで来る。

 元妻は電話から二日後の昼に地元の福岡から羽田に着く予定になっていた。新しい旦那は元妻の同級生だった。東京でばったり再会を果たし、そのあとはそのまま世間で腐るほど転がっている不倫の流れとなり、俺達は呆気なく離婚した。
 千葉の内房に住むうちから羽田までは車で約一時間の距離だから、そう大した距離ではない。問題なのは陵介と元妻の間に生まれた目には見えない距離の方で、それが上手く近付いてくれるのかどうかが気掛かりで仕方なかった。
 おまえを捨てて母さんは出て行ったんだよ、なんて実の息子に言えるはずもなく、長い間その辺りの事はうやむやにしたままだった。
 自分の母親が新しい家庭を持っている事を陵介は知っていたけれど、それについて何か意見をすることも今の今まではなかった。

 今回は子供達を置いて一人で来ると言っていたが、次回は新しい子供達を連れて来る気なのだろうか。万が一にでも「可愛がってあげてね」なんて言われた日には、子供達の目の前で元妻をブン殴ってしまうかもしれない。
 こんな時にあくまでも自分の事しか頭に浮かばない俺は、やはり元妻と別れて正解だったのだろう。向こうもそう思っているはずだから、あんな提案が気軽に出来てしまうのだろう。子供はいつもワガママだが、大人はいつも自分勝手なものだ。

 家を出てから数分。高速の入口に近付いて来ると、助手席に座る陵介が「あっ!」と叫んだ。忘れ物でもしたのかと思い、車を路肩に止めると実に小学生らしい、わざとらしい言い方で「あちゃー」と声を漏らした。

「どうしたんだよ? 忘れ物か?」
「ちっげーけど、あー、でもなぁ」
「なんだよ?」
「ねぇ。今日って母さんの誕生日じゃない?」
「……あっ、本当だ」

 今の今まで気付かなかったが、今日は妻の誕生日だった。人を祝うよりも祝われる事を気に掛ける元妻の事だから、当然のようにプレゼントを要求してくるかもしれない。彼女は何も高い物が欲しい訳じゃなく、誕生日を覚えていてくれる事が大事なんだと言っていた。それは付き合っていた頃から結婚してからも、ずっと変わらないままだった。だから、わざわざ今日を選んだのかもしれない。

「まだ時間あるけど、渋滞ハマったらマズイな。母さんの好きそうな物、サービスエリアとかで買って行くか?」
「……ねぇ、父さん。ほら、あれ見てよ」
「うん?」

 助手席の向こう側。陵介が指を差した方に目をやってみると、国道沿いに続く畑が切れ、その次が向日葵畑になっていた。

「おい、まさか向日葵を持って行くの?」
「茎の途中からボキーって折って、母さんにプレゼントしたら喜んでくれるんじゃない?」
「人んちのだろ、マズイよ」
「……あっ、見てよ。農家のおっさんいるよ? ちょっと頼んで来る」
「待て、おい……行っちゃったよ」

 陵介は沿道の向日葵畑に向かって走り出し、畑の主人に向かって身振り手振りで交渉を始めた。
 俺も車を降り、陵介と一緒になって主人に事情を話した。今年八十になると言う細身だが元気な主人は快く向日葵を持って行く事を許してくれた。

「ただ勝手に咲いてすぐにくたびれちゃうんだから。持って行ってくれた方が嬉しいよ!」
「急なお願いなのに、本当ありがとうございます」
「いいのいいの。それよりも少年、うちの向日葵を母ちゃんに喜んでもらえたらね、じいちゃんもハッピーだよ!」
「うん、絶対に喜ぶと思う! 母さん、花の中でも向日葵が一番好きだったから」
「じゃあ、お母ちゃんは明るい人なんだな」
「うん! 明るくて、楽しい人」

 陵介は頂いた向日葵を大事そうに両手で車まで運ぶと、後部座席に放ってあった紙袋に入れて足下に置いて微笑んだ。

「作戦成功! 父さん、出発進行!」
「よし、行こうか。優しいじいちゃんで良かったな」
「僕の日頃の行いってヤツかな?」

 今日は陵介が良く喋る。本当は今すぐにでも飛び上がりたいほど嬉しいのだろう。母親にとっては四人もいる子供のうちの一人かもしれないが、陵介にとってはたった一人の母親なんだ。その喜びに水を差すような馬鹿な真似はしないでおこうと思い、俺はアクセルを踏んだ。

 珈琲でも飲もうかと途中でパーキングに寄ると、陵介が買いに出ると言い出した。

「アイス珈琲、Mサイズだぞ」
「分かってるよ。ブラジルか、キリマンジャロが好きなんでしょ?」
「分かってんじゃん」
「まぁね」

 自信ありげに車から降りた背中を見送ると、煙草に火を点けた。ここに来るまでの間、陵介は日頃あまり話さないような事まで俺に聞かせてくれた。
 好きな女の子がいる事や、クラスで流行ってるギャグを披露したり、担任の女教師のモノマネも見せてくれた。ここまで息子にひょうきんな面があると思っていなかったし、人を笑わせるのが好きな子供なんだと思うと、何だか頼もしくて嬉しくもなった。
 珈琲とコーラを両手に持ち、器用に人の合間を縫って歩く息子の姿に、自然と微笑んだ。元妻が見たらどんな風に思うんだろう? そう思いながら、煙草を揉み消した。

 羽田の駐車場に着いて元妻からの連絡を待っていると電話が鳴った。画面に目を向けると元妻からで、陵介の顔が一瞬強張るのを感じた。喜びもあれば、当然その分の緊張もあるのだろう。

「もしもし、何処にいる?」
「…………」
「もしもし?」
「ごめん、行けなくなっちゃった」
「え?」
「昨日の夜、子供が熱出しちゃって。ごめん、陵介には具合が悪くなったとか何とか、言っといて」
「おい、だったら……なんで昨日のうちに連絡寄越さなかったんだよ?」
「バタバタしてたのよ……急に熱出しちゃったもんだから……」

 不安げな眼差しを向ける陵介に頷いて見せて、俺は車を降りた。
 子供の具合が悪くなったなんて、そんな都合の良い言い訳が通るほど俺は馬鹿じゃないし、それが通じるようなら離婚もしていなかったかもしれない。互いに分かってしまうからこそ、軋轢が生まれんだ。
 とにかく、こんな状況にさせた元妻をとてもじゃないが許せない気分になった。

「今、車降りたから……本当の事を言えよ。俺の事はいいけど、陵介だって来てるんだぞ。ずっと楽しみにしてたんだぞ」
「だって……もう何年も会ってないから、陵介に会う事を想像したら……急に怖くなったの。私を見るあの子の目がね、凄く怖いんじゃないかって……そう思ったの」

 車の中からこちらを見上げる陵介の目は、不安げに揺れていた。さっきまでは母親に会う事を思いながら、たくさんの光で輝いていた。隠し切れてない喜びも、知らずのうちに溢れていた。
 いつもより饒舌に話していたのは、おまえに会いたかったからなんだよ。怖い目なんて、している訳がないだろう。おまえはみんなの母親かもしれないけど、陵介にとってはたった一人の母親なんだよ。

「怖い訳ないだろ。陵介はおまえに会えるのを楽しみにしていたよ、ずっと」
「……次はうちの子達も連れて、ちゃんと行くから。だから、うまく言っておいてよ、ね?」
「うちの子達って……もう来なくていい。じゃあな」

 半分怒りに任せて電話を切ったものだから、掛け直して来るかと思った。けれど、スマホは何の反応もなかった。思わず地面に叩きつけてやろうかと思ったけど、肺が痛くなるほど深呼吸をして気分を落ち着かせた。それなのに、肺の辺りはやたらとチクチクと痛んだ。
 ドアを開けて、無理矢理にでも明るい声を向けてみた。

「母さんな、熱が出てコロナで引っ掛かって飛行機乗れなかったんだって。ごめんねって、そう言ってくれって」

 陵介は紙袋の中に入れられた向日葵の花弁を指で摘んだり離したりしながら、黙り込んだまま静かに頷いた。
 羽田の駐車場を出て千葉へ向かい始めると、急に雲が立ち込めて雨が降り出した。
 首都高に入ってすぐに渋滞にハマると、車内にはワイパーの作動音とラジオの声だけがやたら賑やかに響き始める。
 何処にぶつけたら良いか分からない苛立ちを顔に出さないように、汚い言葉を吐かないように煙草に火を点けると、陵介が口を開いた。

「うちのクラスの田口がさ、本当にバカなんだよ」
「……田口って、あぁ。あの、酒屋の子か?」
「うん。スッゲーバカでさ、俺んちには酒がいっぱいある! って自慢する為にさ、あいつ学校に酒持って来てんの。それがバレて怒られて親が呼ばれてさ、親は先生に「すっごい良い酒なんですよ」って自慢してさ、親子揃って怒られてんの。本当、スッゲーバカでウケた」
「それは……本当、親もちょっとどうかしてるよな」
「父さんはさ、お酒好き?」
「うん。量は飲めないけど、ウィスキーもビールも日本酒も、みんな好きだよ。田口さん所でも買うしな」
「じゃあさ、今度言ってやんなよ。お宅は息子さんもあなたもバカですね〜ってさ」
「ははは、そりゃあんまりじゃないか? 多分、反省してるんじゃないかな……多分、だけど」
「…………」
「きっとバカだから、多分……だけど」

 この間、俺は目を横には向けないように努めた。
 こんな時は、きっと横を向いてはいけない。
 それは、陵介も、俺も、男だから。たった二人家族の親子だけど、俺達は一人の男同士だから。
 降り続ける雨を振り払うワイパーを目で追って、隣から聞こえる鼻を啜る音に耳を向けないように意識した。強く、強く、意識した。

「母さん……僕に……会いたかったかな」
「当たり前だろ、おまえの母さんだぞ」
「そうだよね、だって……母さんの息子になったのはさ……新しい子供より僕の方が早いんだから」
「……コロナが収まったら、また会おうな」
「会ってくれるかな? 次は、来年かな」
「来年なんて、すぐだよ」

 そう言ったのと同時に、その言葉を反省した。
 大人の自分と、子供の陵介では過ごす時間の速さが余りにも違い過ぎるのだ。

「田口さん所みたいにさ、父さんと一緒にバカやってたら、来年なんてすぐだよ」
「……うん。きっと、すぐだよね」
「夏休み明けたらさ、ランドセルにウィスキー入れて持ってけよ」
「えー、やだよ」
「なんでだよ?」
「怒られたくないもん」
「陵介は真面目だなぁ」
「真面目じゃないの、それが当たり前! なの」

 カラ元気じゃいくら頑張ってみても、底の抜けたバケツに水を入れてるみたいに心はすぐに埋まらなかった。それでも、俺達はバカみたいに必死にどうでもいい事を話し続けた。
 渋滞はしばらく続いていて、話しが鎮まる頃になってようやく動き始めた。
 そっと横に目を向けてみると、寝息を立てる陵介の瞼が腫れていた。
 その姿を見た瞬間、熱いものが目から止めどなく溢れ出した。運転中だぞ、と言い聞かせて何度も何度も目を拭った。鼻も啜らないように気を付けた。
 それでも何度か鼻を鳴らしていると、陵介が一瞬だけ起きる気配がした。けれど、紙袋を抱き締めたと思ったら再び目を閉じてしまった。
 こんな時は見るなとも言えないし、ごめんな、とも言えない。けれど、居てくれて良かったと、そう思う事だけは出来た。
 本当に、居てくれて良かった。

 千葉に着く頃には雨はすっかり上がり、雲の切れ目からは金色の陽射しが降り注いでいた。

「父さん」
「うん?」
「向日葵、枯れて来てるかも。しなしなになりそうなんだけど」
「そしたら……捨てちゃえよ」
「……」
「だって、枯れそうなんだろ?」
「ううん、持って帰る。持って帰って、元気にさせてみる」
「そっか。じゃあ、いっぱい笑わないとな」
「そうなの?」
「うん、そうなんだよ」

 家に帰る途中でホームセンターへ寄った。向日葵を挿す大きな花瓶を買うためだ。
 車を降りようとすると陵介が「俺、買いに行く」と言った。

「じゃあ、お金やるよ」
「いい。小遣い、あるから。その代わりさ、好きなの選んで来ていい?」
「うん、いいよ」

 陵介は返事もせずに車を飛び出すようにして降りて行った。駆け出す背中が店に向かってどんどん小さくなって行く。
 ふと助手席に目を遣ると、陵介のスマホが置かれたままになっていた。画面は検索結果の表示のまま止まっていた。
 上にスクロールした検索窓には「ひまわり 種 保存」と打ち込まれていて、映像としては何となく思い描けない、けれど楽しくなりそうな次の夏をなんとなく思い浮かべた。

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