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浄罪は誰が為の悦びや

高校を卒業すると同時に、工業団地の一角にある金属加工会社に就職した。高校は普通科だった上に、工業には何の興味も持っていなかった。卒業より半年前から自費で学費を払っていたほど家に金が無く、かと言って家は自営で建前の収入だけは多かったので経済的援助も受けられず、行きたかった専門学校には行けなかった。大学へ進学する事も出来ず、経済的事情によりとにかく卒業と同時に働かなければならなかったのだ。

埃と油の匂いに充ちた古ぼけた工場には同年代の若者はおらず、入職初日には歳がふた回り以上離れた数十人もの好奇の目が一斉に向けられた。
中には諦めのような笑みを浮かべたり、こちらを眺めながら首を傾げる者もあった。何となく、歓迎されていないのを肌で感じた。
誰とも話が合わず、休憩中は一人で過ごしていた。話し掛けられるのが元々好きな性分ではないので、その方が楽だった。昼は留置所の官弁よりも不味い弁当に金を払って腹を満たした。前任者が着ていた油臭い作業着を渡され、積み重なる金属板を持ち上げて穴を空け続けた。教育担当者が日本語に不慣れな中国人だった為に意思の疎通がほとんど取れず、いくら経っても作業は一向に上達しなかった。

働き初めて一週間した頃だろうか、弁当を食っていると突然中年の作業員に声を掛けられた。

「おい、大枝くんだろ?」
「え、はい」
「俺だよ、俺。ほら、近所の富山」
「えっ、何で?」

富山さんは家の近所に住む都内の企業に勤めているサラリーマンのはずだった。毎朝キッチリとしたスーツを着こなし、家を出る。こんな汚いボロ工場にいるはずがなく、まさかと思ったのだ。
富山さんは周りを警戒しながら、そっと声を潜めた。

「俺、リストラされちゃってさ。行く所なくて、半年前からここに来てるんだよ」
「そうなんですか、大変ですね。まぁ、これからよろしくお願いします」
「……悪いことは言わない。ここは辞めた方がいいよ」
「そうなんですか?」
「若い子はみんな散々コキ使われて、辞めていくんだ。あの刺青の班長いるだろ?あいつが原因だよ」
「はぁ……そうですか」

休憩所のテーブルの真ん中に陣取るグループの、さらにど真ん中に座る首までタトゥーの入った金髪の三十男が目に入った。
しかし、班も違うし関わりが無かった。けれど、両腕を広げながら大して若くもない事務員のケツを触って馬鹿笑いするそのグループを見ながら、何故か凶悪なまでの閉塞感を感じてしまった。
「上から鉄板が落ちて来て、全員死ねば面白いのに」そんな事をふと思い、自分にとってこの場所が異常なほどつまらないのだと認識した。

終業後に油を落とす専用洗剤で手を洗っていると、連中の一人に声を掛けられた。

「新人だよな?どっから来てんの?」
「はい、○○町です」
「はぁ!?マジ!?あんな遠くからこんな所にわざわざ来てんの!?君ちょっと、おかしいんじゃない?」

頭の上で指をくるくる回しながら、「マジでウケるわー」という彼らの声が遠くなるにつれ、金のない状況でも光を見なければならないと必死になっていた心の中がひりついた。眩い光に照らされ続け、知らぬ間に渇き切ってしまった心が冷たい影を求め始めた。
ささやかでも希望を見ることが途端に馬鹿らしくなり、光に溢れた世界に笑みを零す者さえ否定したくなった。
家に金がないから、働かなければならない。援助してくれる大人はいない。家に帰れば両親が金策の為にあちこちに頭を下げ、電話をしている。頼むから、と言われて親代わりに自分の名義で金も借りた。かと言って、助けてくれと叫ぶ声すらあげられない。
そうなると次に心を満たすのは途方もない自暴自棄だった。会社から借りていた自転車には乗らずに門を出て、ロッカーの鍵をその辺りの草むらにブン投げた。一人一人の顔を思い浮かべては目線の先の地面に落とし、それに向かって唾を吐いた。
翌朝、仕事へは行かずにテレビを見ていた。無断欠勤をしていたので当然電話が掛かってきた。出るのが面倒で昼頃に出ると説教を喰らった。
他人事のように聞く声に覚えるのは馬の耳に念仏、糞に手裏剣。

「行動とは社会常識を軸に考えなければならないんだよ!君は一体何がしたいんだよ!?」

十八歳の頭と経験で考え得る社会常識など、たかが知れている。相手が馬鹿で無能だと感じた。電話に出なかったのはこうやって怒られるのが嫌だったからだし、無断欠勤したのはもう二度とあんな閉塞的な空間に身を置きたくないと感じたからだ。
だからこそ、自分の言葉で返した。今思えばそれこそが経験のない者の強さでもあったのかもしれない。

「休憩中にあの場所で時間を過ごしていると、気分が暗くなって死にたくなるんです。楽器屋で働きたいので辞めます」
「辞める!?楽器屋で働きたいなら、最初からそうすれば良かったじゃないか!」
「はい、だからそうします」

そう言って、電話を切った。
それから二度と電話は掛かって来る事はなく、実際に楽器屋に面接へ行ったが見事に落とされた。どことなく、因果応報のような気もした。馴染みのライブハウスのスタッフに声を掛けられたが、身内になるのが心底気持ち悪いと感じたのでそれも断った。
まだ覚えているのは、楽器屋の面接の帰り道のことだ。履歴書を眺める面接官の反応が薄かった。恐らく落ちただろうと思いながら歩いていると、自分が何処へ行こうとしているのかが解らなくなった。
そもそも、何処かへ行こうともしていないのだと感じたのだ。
何故、誰しもが何かを目指さなければならないのだろうか?高みに登り、喜んでいる隙に梯子を外され頭を打って死ぬ奴もいるというのに。ふと顔を上げると、街には希望を謳う文句が足の踏み場のないほどに溢れかえっていた。希望で光のゴミ箱はいっぱいだと感じた。
白く輝く希望や光が絶望的に遠く、そして暗く感じた。
そんなに喘ぐようにしてまで希望や光を謳わなければ、皆生きて行けないのだろうか。それが大人達の作った世界なのだろうか。そして、ほんのあと数年でそんな大人の中へ自分が入っていってしまうのだろうか。

酒を呑んでもいないなのに、目眩を起こして酩酊した。むしゃくしゃした挙句、電話ボックスの中へ入って受話器を持ち上げ、力任せに本体に叩きつけた。壊れはしなかったが、心の中に在った何かが壊れた気がした。
大人としてこんな発言をするのはどうかと自分でも思うが、時折とんでもない犯行に及ぶ者達が「世間を恨んでいた」と供述する気持ちが実は解らなくもない。
それを解ろうと、伝えようとする人達がいるのも知っているし創作の必要上その手の本を読むこともある。
ただ、世間の人間の大半は心の何処かで理解よりは娯楽を感じたくて見ているのではないかと思っている。
もちろんそれで良いとも思うし、相互理解には限界がある。理解した所で、良い事など一つも起こらない。

誰かに目を向けられたとして、あの頃の自分がどうして欲しかったのか簡単に言えば、よほどの偶然が金をもたらして我が家を救ってくれたなら何も言う事はなかった。けど、そんな偶然は起こるはずもなく、金が無いと声をあげた途端に人が離れて行くのを骨身に染みて感じていた。
人というよりは、世間を殺したかった。どう抗っても抜け出せない状況を壊したかった。街に溢れる声の大きな希望の押し付けが気持ち悪くてたまらなかった。そんな風に思う事に対して、止めて欲しいとは思わなかった。止められても、きっと反発していただろうと思う。
けれど、せめて腰を下ろして座りたかった。
腰を下ろして、少しだけでもいいから誰かに話を聞いて欲しかった。聞いて欲しいと伝える勇気が欲しかった。
恋人や地元の友人、バンドメンバー、スタッフなど周りに人はいたはずなのに、誰かに弱みと自負するものを話す事が怖くて仕方なかった。
その結果、日々を重ねる毎に人を避けるようになり、また、人を嫌悪する機会も増えて行った。

それから数日後。たまたま家が近いという理由のみで博物館の警備の面接へ行った。
その前の年。高校三年の夏、昼から酒をしこたま呑んだ仲間達と一緒に博物館へ行き、常設されている噴水の中へ服のまま飛び込んで泳いだ。
すぐにすっ飛んできた警備員に怒鳴られ、水から上がると本気で叱られた。

その時に自分を叱りつけた警備員が班長兼面接の担当者だった。気まずさを感じたが、向こうは気付いている様子はなかった。
無事に合格し、仕事は「見て守る」というスタンスだったので来場者に目を光らせるのは中々に飽きる事なく、楽しいとさえ感じ始めていた。
そんなある日、休憩中に班長がある一冊の日誌を取出し、それを口に出して読み始めた。

「八月九日。酒に酔った高校生が数人、噴水に飛び込む。中は電流が流れているため、急いで引き上げる。悪気はなかったようだが命に関わることなので、思わず説教の語気も強くなる。反省の色、あり。ひとつの将来が救えたと思えば、よし」

それを聞いている内に、耳が熱くなって行くのを感じた。そのまま何も返せないでいると、班長は笑いながら言った。

「俺、初めっから知ってたよ。あっ、あん時の小僧だ!って思ってさ。知ってて雇ったんだ」
「あの時は……本当、すいませんでした」
「いいよ。次、あんなのが来たら頼むよ。頼りにしてんだから」

そう言って班長が部屋を出て行った後、妙に心が温かくなるのを感じた。
あんな真似をしたのを知りながらも雇ってくれて、さらに自分を頼りにしている事が嬉しかったのだ。
仕事をしているとこんな風にして、喜べる瞬間もあるものなんだと感じた。

それから今に至るまで、正直大きな光や希望を見るのは苦手なままである。というか、生まれて一度もそんなものに憧れたこともなければ、それが正しいものなんだと認識した記憶がない。なんせ、朝から晩までホラー映画やヘヴィメタのMVが垂れ流しになっている家庭環境で育っているのだ。

目が潰れるほどの光を盲目的に受け入れるならば、細くて小さくても良いから光を光として認識していたいと今では思っている。
その為に闇や影は必要だし、それを無理に掃おうとすることには違和感を覚えてしまう。分かり易い言い方をすれば、反吐が出る。

なんとなく、書きたくなったことを書いた。意図も意味も、特にはない。

悪筆、乱文失礼。

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