なるべく気落ちしないよう

令和という年号になってから「ロクなことがない」と嘆く人をネットでたまに見かける。
雨による災害、コロナ、戦争、銃撃事件、とまるで黙示録をなぞっているかのように目まぐるしく何かしらが起き続けているのは確か。
でも考えてみたら、この日本だけでも昔から年中何かしら起き続けている。

僕が小さな頃は数あるカルト教団が連日テレビを賑わしていたし、終末を実現させる為に自ら大きな事件を起こした教団もいた。
そう思うと目に見えて平和な時代なんか今までなかったように思うし、そもそも平和の定義なんか実は人によって異なるから何とも言えない所ではあるけれど。

誰も経験がなかった出来事で言えば東日本大震災だったり、コロナだったりがある。これくらい大きな出来事があると生活様式に直接的な影響が出たりする。
今となっては皆何の疑問すら抱くことなくマスクをするのが当たり前になったけれど、僕はかなりギリギリまでマスクを着用していなかった。
流行りに乗りたくない!という頑固な気持ちからではなく、元々酸欠になりやすい体質なのでなるべくなら呼吸を妨げるものが何もない状態が自分にとってはベストなのだ。

マスクをするのが当たり前になりつつあった数年前の春。
一人で近所を散歩していたらクシャミが出そうになった。これはハクション大魔王が出るな、そう思って立ち止まり、クシャミをした瞬間。
向かいから歩いて来たサンバイザーを掛けたご婦人(ババア)が僕の前で立ち止まり

「うわぁっ!」

とあからさまに顔をしかめてマスクをした顔を片手で覆い、もう片方の手を団扇を振るみたいにブンブン扇ぎ出したのだ。
これを見た僕は何だかとんでもない迷惑を掛けてしまった気分になり、仕方なしにマスクをするようになった。

感染予防の観点からみればもちろんマスクはしないよりした方が絶対に良いに決まっているし、コロナはまだまだ収まる様子もない。
これからもマスクはするけれど、人の顔が見えないっていうのは案外ストレスになるのかもしれないなぁと思ったりすることもある。

天性の人間面倒臭がりなので、僕はコロナが流行って世間では飲み会や人と飲食する機会が激減することに大手を振って喜んでいた。
無駄な飲み会は失くした方が良いと思うのは今でも全く変わらないし、人と交流するのにわざわざ飯を食う必要はないと考える質の人間だけれど、何気なく見る景色の中にいる人々の「顔」が見えないのは何だか不気味だな、と先日改めて思ったりもした。

「行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから~」で有名な言葉がある。今も何処かの怪しげなセミナーや勉強会などで散々擦られ続けているであろうその言葉は、確かにその通りだと思う。けれど、当たり前のことを当たり前に言っているだけのように思ってしまう僕はきっとあまのじゃくなのかもしれない。
「居酒屋の湯呑茶碗に書いてあるみてぇな事言いやがって、馬鹿野郎」
と反抗的な考えを持ちながらも、割とあっさりその言葉に感銘を受けていたりもする。

きっと今の状況はそれと近しいものがあるのかもしれない。
集団意識みたいなものに対して理由もなく慣れてしまう自分に、心の何処かで反抗していたいのだろう。
僕は昔から「自分と、それ以外」という考え方を非常にするとにかく偉そうな人間である。
全然良い人ではないし、化けの皮を被っているつもりもない。正々堂々と「他人との交流は面倒臭いからなるべくしたくない」と言い続けているし、今も昔もモットーにしているのは「一方通行のコミュニケーション」だ。

それでも一応人間なので、心が弱る時もある。
今は人生の伴侶となる人がいるので、その人に誕生日を祝ってもらったり日常をこつこつと積み上げたりして割と平和に過ごしていたりもする。
その人にも「偉そう」と良く言われるし、そう言ってもらえることが実は大きな支えになったりもしている。
傍で自分のことを指摘してくれる人がいるという事は、存在を映す鏡のようなものなのだ。
それが無ければ自分の姿形さえ分からず、僕なんかはいよいよ頭のマズイ奴になりかねない。

そんな割と平和な心の部分が、機敏に反応するのは当たり前かもしれないが人が亡くなる瞬間だったりする。
上島竜平が亡くなった時、僕は自分でも想像以上のショックを受け、一週間くらいぼやぼやした物しか書けなかったりした。

亡くなり方があれだったので余計ショックを受けた部分もあるけれど、きっと話したくても誰にも話せない(と思ってしまう)心の事情もあったのだろうと思う。
そんな状態にあったことが実はショックだったのかもしれないし、ショックの原因が「何が絶対的にこうだ」と断定出来るものがあるのかさえ、自分でもわからない。

死は絶対的に悲しいものではあるけれど、その死が何故自分にとって悲しいのか分解して押し並べてみた所で、どれもこれも違う部品のような気がしたのだ。そうなると、部品が形となったすべてが、生きることなんではないだろうかと逆流してみて考えに至ったりもした。
そう思っていた最中に、今度は安倍元首相が凶弾に倒れてしまった。

こんな時代にあんな事件が起きるなんて、と思っていたけれど、どの時代でも思いがけないことは常に起きてしまうものなのだ。
その回数を減らす努力をしている人達は多くいるし、その積み重ねの中にたった一人の人間の意識というのも加わるのだろうとも考えている。

この記事は別に何かお役立つことを伝える記事でもないし、いつも書いているような物語でもエッセイでもない。
つまり、オチは何もない。

ただひとつ言いたいのは、人間共がなるべく気落ちせずに生きていけたらいいなってこと。
何故「人間共」って言い方かって?
それは僕が常に偉そうだからです。

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