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【小説】 YとR 【ショートショート】

「悪戯に過ぎた」と言うのなら、余りにも悪戯が過ぎている。
 もしも些細な興味で今という結果があるのなら、悪戯と言うよりもコレは最早、悪ふさげとしか私は思えない。
 そんなことをぼんやり考えてホテルの天井を眺めていると、二時間前に知り合ったばかりの彼は慌てふためいた様子でヨレたYシャツを着ながら言った。
 ブラ下がるモノを見て、普通、下から履かない? と私は思った。

「また会えるかなぁ? おじさん、キミにハマっちゃいそうだよ」

 へへっ、と笑う漫画に出てくる下卑野郎みたいな彼の声に、私はただ真顔で頷いてみせる。
 社交辞令にも満たない礼でも言おうとしたけれど、あぁ、いけない、もう名前を忘れてる。身体の感触はいつまでもこうやって、それこそ身体を起き上がらせる気力を失くすくらいに身体の皮膚を這いずり回ってるのに、このおっさんの名前がさっぱり思い出せない。そして明日には、きっと顔も忘れていることでしょう。

 つまり、どうでもいいのだ。

 いつの間にか心地良い眠りに就きそうになっていると、ドアの方から彼の声がする。
 私はあー、とか、うー、とか答えてる。一生懸命何か言っていたようだったけど、特に大した事じゃ無いと思う。
 そう、思いたい。
 何拍か置いて、バタンと音がして、私は一人きりになった。いや、なれた。
 空調が回る音と、隣室から微かに聞こえてくる人が動く音。何をしているのかは余り考えないようにして、私は何となくテレビを付けてみた。テレビでは蹄が異常に発達したヤギの集団が岸壁にしがみ付いて、苔だか草だかを懸命にモサモサと食べていた。
 落ちたら確実に死にそうな場所で、ヤギ達はご飯を食べている。私はそのシュールな光景がなんだか気に入って、しばらくの間惚けた様にその映像に魅入られていた。が。

 はっ、と気が付いた。

 支払いは? 嘘でしょ、ヤラれた。二万の約束だったのに。罰金になるでしょ、これ。私が払うの? え、意味分からない。契約不履行だよ、こんなの。
 さっき何か言ってたのってこの事だったの?
 この時、「よし、殺そう」って思ったんだけど、その時の感覚は部屋に飛ぶ忌々しい小蝿を叩き潰す前とそう変わらない。断崖絶壁にしがみ付くヤギのように、私は彼と交わした正常な「契約」の為にすぐにスマホを手にした。

 その僅か十分後。

 彼は雨で濡れそぼるホテルの裏路地で、破れたシャツをかろうじて身につけながら土下座をしていた。
 仲介役でガタイの良いオッサン、山田がポニーテールを揺らしながら、笑顔で土下座する彼の頭を踏み付けている。

「お客さん、困るんだよね。オモテ立って言わないけど、商売なんだからさ」
「あの、申し訳ございません……つまり、その、システムを知らなかったので」
「ユカ、メッセージ残ってんだろ?」

 私はさっき観ていたヤギの事をネットで調べながら答える。

「残ってるよ。おっさんの写真も」
「そう。おっさん、知らなかったじゃ済まないんだよね。こういうの、すぐ噂になるしね。うちはセックスボランティアじゃないんでね」

 彼、いや、おっさんは怯えた様子で謝り続けている。
 これが動物的本能による行動だとするなら、ヤギ達はこのおっさんをどんな目で見るのだろうか?
 きっと、瀕死と見做して崖から突き落とすかもしれない。

「免許証、社員証。無ければ名刺」
「は、はい……?」
「早く」
「は、は、はい」

 鞄の中からおっさんが慌てた様子で財布を取り出そうとした。書類やらアイコスやらが濡れた地面に次々と出て来ては並べられて行く。私は少し神経質なんだろうか、がさつな並べ方に腹が立つ。
 おっさんが鞄から続々と物を取り出す姿を見ながら、私は「やりたい放題」という幼児用の玩具を思い出した。
 ほっこりしたそんな小さな私の思い出は、たちまち打ちのめされた。

「うっそ! 何それ」
「あの、その、へへっ……あの、ねぇ……?」

 書類の上に置かれた野太い紫色の性的マシンに、私は絶句した。

「え、マジで何それ?」
「ちゃ、ちゃんと洗ってありますから……」
「引くわ。せめて新品持っとけよ。時間ないから次行くね。山田、あとヨロシク」
「はいよ」

 私は雨の中、傘も差さずにその場を後にする。
 カッコつけたい訳じゃない。電車の中に傘を置いて来てしまっただけなのだ。
 五反田駅へ向かう途中でコンビニへ寄り、電車に乗る。
 席が空いてたから座ろうと思った直後、私の後からベビーを連れた新米のママンがやって来たので素直に席を譲った。
 ママンはすごく丁寧に、なんていうか、実に日本人らしい美しく綺麗なお辞儀をした。マジ、日本人って感じの。
 抱っこ紐が少しプヨついた肩肉に食い込んでる。ベビーカーじゃないから、おそらくこの辺りの人なのだろうか。
 子供かぁ。そんな夢見れたらなぁ、とか物思いに耽っていると、このママンの目には私はどんな風に映ったのかなぁとか私は考え始める。

 きっと、その辺にいるちょっと派手で顔だけは綺麗な若い女の子。
 に、違いない。
 多分、少しズレてるだけで私は充分「その辺」の範疇に収まっていると私は認識しているんですけど、どうでしょうか? とママンに尋ねてみたくなった。もちろん、自分の仕事も生い立ちも全部ぶっちゃけた上で。

 けど、このママンが私の事なんか何も知らないのと同じで、このママンももしかしたらこの子とこれから心中キメちゃったりするのかもしれない。
 人間なんてどこでどうなるか、どころか目の前にいる人間の事さえ、何もわかりっこないのだ。
 吊り革に掴まるまだ若そうなリーマンの二人組が、ダラダラクスクス何か喋ってる。片方は背が高くてそこそこブサイクで、もう片方は少し太ってるけどまぁ顔の作りは良い。

「瀬古の奴さぁ、マジでヤバくなったよな」
「あー、悠太? まだ見つかってねぇんだろ?」
「上がどうしようか悩んでたらしいけど、結局被害届け出したって」
「あったりめーだよ。二千万だっけ?」
「報道にもなるみてーよ」
「もう逃げらんねーよなぁ、マジバカだよ」
「嫁と子供置いてさぁ、何してんだか」

 ほーう、これまた興味深いハナシ。下衆な話を聞く時は自然と耳が大きくなる。これは人の掟。
 窓の外に流れる卒塔婆みたいなビル群を眺めながらゆっくり拝聴しようと思っていると、ママンが急に立ち上がって「あの」とリーマン達に声を掛けた。

「瀬古悠太の職場の方ですか?」

 リーマン達は顔を見合わせて、「まぁ」と小声で答える。ちょっとビビってる風。すると、ママンが声を震わせて「妻なんです!」と言ったもんだから、私は思わず心の中で握り拳を作って腰を引いた。待ってた、こういうロマンスを待ってたの。

「あの人、会社で何したんですか!? もう二週間も家に帰って来ないし、連絡もつかないから捜索願いまで出したのに……」

 小太りはとても嫌な目で、本当に心底人を見下す目で、嘲笑いながらこう言った。

「知ってたんじゃないっすかぁ?」

 あー、ロマンスの邪魔だ。この小太りはただのデブに降格。せっかく良い展開で物語が進んで行きそうな矢先で、このデブは自分がちょっとイカした突っ込みでも入れたつもりなのか、それとも売れないニヒルを演出したつもりなのか、とにかく全部ブチ壊れた。
 ブヒー、旦那さまは実はこんなことをしたんだブー、って答えるのが筋でしょ!? あー、ダメダメ、全然違う。
 それでも、ママンはママンでだいぶ鈍い人なのだろうか、「はえ?」と変な声を出してきょとんってした顔になった。蝿も小蝿も銀蝿もいないし、多分旦那さんは犯罪者なのだろうけど、これから先このママンとベビーは大丈夫なのかしら。
 意味が伝わってないのを「違うんだよなー」と悔しがるデブは論外だったけど、デブを諌めない隣のノッポもどうかしてると思った。
 そうすると少しずつ苛立ちが増えて行って、テレビに映るヤギをぼんやりと眺めていた時間が如何に素晴らしいものかを私は認識し始める。

 山田からの着信に気付いて車内だったけれどすぐに電話に出た。オッサンから無事に回収が終わったとのことだった。もちろん、生活をブチ壊すくらい大きなペナルティも込みで。
 私は途端に興味の失せたロマンスの続きを投げ捨てて、次の「現場」が待つ駅へ降りて行く。
 ママンは必死に何かをリーマン達に訴えていたけれど、まぁ頑張ってとしか感想は出て来ない。

 ホームに降りてからまだ雨が降っていることにアホみたいにハッとして、コンビニへ行ったのに傘を買ってなかったことを思い出す。
 きっと改札を抜ける頃にはそのことすら忘れてるんだろうなぁと思いつつ、パスケースを探しながら知らない足跡達が、これから出会うかもしれない足跡が濡らした階段を下りて行く。

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