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【小説】 虚空を漕ぐ魚 【ショートショート】

 今年二十五歳になる俺と林が出会ったのは二年前の夏のことだった。日雇いアルバイトで食いつなぐ俺達は同じ派遣会社に登録していて、短期の事務所移転の現場で出会うとすぐに意気投合した。
 週末になれば俺達はどちらから誘う訳でもなく、それが当たり前であるかのように二人で飲み歩くようになった。

 林は派手な見た目をしていた。顔は西洋人みたいな美青年で長髪。私服はいつもチベットの民族衣装みたいな派手な布のようなものを纏っていた。
 しかし、彼はとても大人しい性格で面倒なことや争いごとを好まなかった。酔うと決まって話すのがなんとも地味なメダカの交配や品種の話題だった。

「及川さぁ、メダカって本当に神秘的な生き物なんだよ。だって、そこら辺の川で泳いでる癖に色んな姿で生まれてさぁ、無限の可能性を感じさせてくれるんだぜ?」
「またメダカの話かよ」
「いやー、実はついにブラックスワローが入っちゃってさぁ、たまらないのなんのって」
「全っ然わかんねぇ。それよりさ、次のバイト決まったのかよ」
「知り合いのペットショップに決まりそうなんだ。時給は安いけど、俺にとっては天国みたいな場所なんだよ」
「おまえ、本当動物とか生き物好きだよな」
「そんなことないよ。魚は……特にメダカは好きだけど。交配させて色んな特徴の奴が生まれるのを見ているとさ、神が世界を作った気分が分かってくるんだ」
「女も作らずにメダカメダカって……変なクスリでもやってんじゃないだろうな?」
「メダカにクスリはあげるけど、自分じゃやらないよ」
「なぁ、おまえって嫌いな動物とか生き物とかいるの?」

 芋焼酎の入ったグラスを置いた林は宙を眺め始めた。そしてひと呼吸置いてから子供のような笑みを浮かべると、こう答えた。

「人間!」

 その後、林はペットショップに勤め始めた。俺は清掃用具を扱う倉庫に取っ捕まってしまい、単発バイトから長期シフト契約へ移行することになった。
 林と顔を合わせなくなってから二か月ほど経った八月の暑い夜に、携帯電話が鳴った。ディスプレイをろくに確認せずに出てみると、興奮気味に喋る林の声が前置きなしに聞こえて来た。

「及川、ついにやったよ! ははは、信じられない。これから時間あるか? 見に来いよ」
「久しぶりだな。どうしたんだよ?」
「いいから、俺んちに来いって。マジヤバイから。待ってるからな、じゃあ」

 バイトで疲れ切っていた俺は一方的に切れた電話に折り返す気力もなく、倉庫を出るとそのまま林の住むアパートへ向かった。
 何度か訪れたことのある狭いワンルームに入ると、照明が消えていた。
 その代わり、ずらりと並んだ水槽の青いライトが部屋全体をぼんやり照らしていた。
 髪だけではなく髭も伸びた林は床に座ったまま、缶ビールを片手に水槽を見上げていた。

「何かすごいもんでも見つけたのか?」
「来てくれたか。ほら、見てみろよ」
「またメダカか? どれどれ……」

 水槽の中を泳ぐ小さな生き物を見た瞬間、俺は自分の目を疑った。水の中を泳ぐメダカに色はなく、向こう側が透けて見えていたのだ。それはシラスよりもずっと明確に、透明だった。

「何これ……え、これってメダカなのか?」
「あぁ。シルキーを掛け合わせまくったんだ。成長したら色が出ると思ったからさ、ここまで上手く行くと思わなかった。ずっと興奮してるんだ」
「これは、確かに凄いな」

 俺の感想は正直、そこまでだった。透明な魚は確かに凄いし、それを自分で交配させたのならより凄いと思ったが、俺はそもそも魚に興味を持てなかった。車道で珍しい外国のスポーツカーを見た時と同じ気持ちだ。その時は驚くけれど、長続きはしない。
 メダカを見ながら缶ビールを開け、二本飲んでから林のアパートを出た。
 その間、林はずっと餌やりや温度管理がいかに難しかったのかを延々と語っていた。
 疲れもあったのか、聞いているうちに眠くなってしまった。

 帰り道。あそこまで何かに夢中になれるのが羨ましいと感じながら、俺は蒸した夏の夜道を歩いていた。
 時給千円で一日中倉庫に缶詰にされる俺にとって、目に映るものや過ぎて行くもの、それら全てが今と過去でしかなかった。未来を見ても精々明日が目一杯で、それ以降は「未知」でしかなかった。
 未知の領域に月日は移り変わった頃、林の様子がおかしくなった。

 十月の晩。一人で残業をしていると前と同じように林から着信が入った。
 業務用モップを出荷用の箱に詰めながら電話に出ると、前回同様林の興奮した声が聞こえて来た。その頃になると、俺と林は飲みに出掛ける機会は無くなっていた。

「及川、ついにやったぞ! 俺はマジでやったんだ、俺は神だよ!」
「メダカか?」
「もちろんメダカだ! いや、もはやメダカじゃないのかもしれない。とにかく来いよ、な? じゃあな」

 電話を切って溜息をついた俺は力任せに出荷用の箱を閉じると、誰もいない現場を後にした。

 林の部屋に入るなり、俺は言葉を失ってしまった。ベッドも、テレビも、それに水槽さえも部屋から消え失せていた。
 何もないフローリングの八畳間で、林は両手を天井に向けてひらひらと動かしていた。

「及川、来たか!」
「おまえ、何してるんだよ? メダカは?」
「それだよ! ほら、見ろよ! すげぇだろ!?」

 そう言って、林は嫌いな生き物を「人間」と答えた時と全く同じ無垢な笑顔のまま、部屋の中の虚空を指さした。

「は?」
「ほら、大きさはまずまずだけどさ。もう水槽もいらないくらいになったんだ。テレビもベッドもこいつらの邪魔になるから捨てたんだ。ほら、シルキーを通り越して完全な透明になったんだよ。二匹も元気に泳いでてカワイイだろ?」
「で、どこにいるんだよ。メダカは」
「おいおい、笑わせるなって! 部屋の中を泳いでるだろ? それも二匹! もう餌も水も必要ないからさ、水槽は捨てたんだ」
「それは、うん。よかったな」
「あぁ! ありがとう。あっ、こら! 人が来たからってはしゃぎ過ぎだって、また壁にぶつかるぞ? こいつら元気いいからさ、窓開ける時マジで大変。出て行くんじゃないかって、いつも冷や冷やするんだよ。あ、この部屋禁煙になったから、煙草吸う時は玄関の外で頼むわ」
「悪い。明日早いからさ、帰るわ」
「え、もう帰るのかよ?」
「うん。まぁ、いいもの見せてもらえたし」
「そっか。ほら、すげぇだろ!?」
「うん。じゃあ」

 林は子供のように屈託のない笑みを浮かべたまま、天井に手を向けて虚空と戯れ続けていた。
 部屋を出てから数秒悩んで、俺は林の電話番号を削除した。
 見えない魚を追いかける狂気じみた林の姿を見て、二度と会わない方が良さそうだと感じたのだ。

 あれから二年が経った。
 俺は変わらず倉庫で働いていて、立場がほんの少しだけ偉くなった。それでも組織の巨大ピラミッドで言えば遥か下方。派遣から派遣リーダーに変わったに過ぎない。
 休日。特にすることもなく日用品の買い出しついでに街をぶらぶらしていると、林が勤めていたペットショップが目についた。あの後、林がどうなったのかは俺には分からない。
 番号を消したとはいっても向こうから結局一度も連絡はなかったし、共通の知り合いもいなかったから、生きてるのか死んでるのかさえ分からなかった。

 林の勤めていたペットショップのドアを開けると、薄暗い店内に置かれたたくさんのケージと水槽が目に飛び込んで来た。南国を思わせる鳥の声、そして水槽を循環する水の音が聞こえて来る。
 さすがに林はもう勤めていないのか、店にいるのはワイシャツを着た短髪の男性店員がひとりだけだった。
 林が言っていたシルキーとか言う品種のメダカを眺めていると、短髪の店員に声を掛けられた。

「すいません。及川さんですか?」
「えっ」

 声を掛けられて顔を見たものの、まるで見覚えのない店員の顔に俺は思わず困惑してしまう。

「俺ですよ、林です」
「え……どこの林?」
「ほら、派遣の現場で知り合ってよく一緒に飲みに行ってたじゃないですか。本当、久しぶりですね。元気してましたか?」
「いや……人違いじゃないですか?」
「しらばっくれないで下さいよ、悲しいなぁ」
「あの、メダカ好きの林?」

 彼は「林だ」と言っているけれど、その顔の作りは林とは似ても似つかなかった。林はちょっと間違えたら西洋人かと思うほど目鼻立ちがハッキリとした美青年だったが、この男は色が浅黒く、目が細くてサルを彷彿とさせる顔立ちなのだ。
 俺が質問をすると、短髪店員は首を傾げて笑った。

「またまたぁ、俺はメダカより犬っすよ! よく言ってたじゃないっすか、犬猫がいるペットショップで働きたいって」
「あっ……そうなんだ。じゃあ、もう行くわ」
「また飲みに行きましょうね! 連絡しますね」
「あぁ、また」

 背中に薄気味悪いものを感じながら、俺はペットショップを後にした。
 あの日、天井を眺めていた彼は虚空を漕ぎ続ける幻のメダカと共に何処かへ消えてしまったのだろうか。そんな妙な想像を巡らしながら街を歩き続けた。
 もしかしたら、林が彼を唆して俺を騙そうとしていたのかもしれない。
 子供じみた所のある奴だから、その線も捨てがたい。
 あれこれ考えている間に、尻に入っているスマートフォンが何度も振動していることに気が付いた。
 家に帰るまで十分置きに鳴り続けていたが、俺は一度も電話を取らなかった。そして、折り返すこともなく再び季節は流れ始めて行った。
 林を名乗る男と出会い、電話が鳴り続けたのもあの日一度きりだった。

 季節が変わって新しい春がやって来た。
 何となく気になり続けていたペットショップへ足を運んでみると、店は潰れて居抜きの中華料理屋に姿を変えていた。
 あの店に、空を泳ぐ魚はいたのだろうか。
 だとしたら、何処へ逃げてしまったのだろう。今も何処かの空を泳いでいるんだろうか。
 中華料理屋の上で回る客寄せ用のパトランプを眺めながら、そんな事を考えている自分に呆れて笑いそうになってしまう。
 マスクの中で「バカかよ」そう声を出して、踵を返す。
 ただ、虚空を見上げて子供のように笑う林の姿だけは、今でも時々無意識にフラッシュバックすることがある。

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