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【小説】 思い出に、よろしく 【ショートショート】

 五反田駅を出ると俺を待ち構えていたかのように突然、大雨が降り出した。悪いとは思っていながらも、コンビニの傘立の中から余り程度の良くないビニール傘を一本拝借する。
 そして、盗んだ傘で凌ぐ雨の中を一気に走り出した。

 ここへ来る前に保護観察官と話す事に時間を取り過ぎてしまった。
 仮出所以来、人と喋るとつい夢中になってしまう自分に、ほとほと嫌気が差してしまう。
 五反田の喫茶店で待ち合わせていた妻は、窓辺で雨の降る街中をじっと眺めていた。外で会うのはそれこそ五年ぶりだった。

「待たせた。保護官のオヤジが話し好きでさ、参ったよ」
「こっちは五年も待ってたんだから。一時間くらい、どうって事ないわよ」
「待たせたのもそうだけど、迷惑掛けてすまなかった。色々と」
「いいわよ、別にもう」
「言ってたアレ、持って来た?」
「はい、これ。私はもう終わってるから。智さん、お願いね」
「あぁ……悪い、ボールペンあるか?」

 妻は溜息を漏らしながら、ボールペンを俺に放って寄越した。ナメた態度に堪らずぶん殴ってやろうかと頭に血が昇ったけれど、もうそういう関係ではない。冷静にならなければ、俺は今すぐにでもブタ箱に逆戻りだ。

 間違いのないよう記入欄の一つ一つに目を通しながら、なるべく丁寧に字を書くことを意識する。
 これでも塀の中で以前より字はずっと上手くなったつもりだったが、妻は俺の手元に目を向けようともせず外を眺めている。
 書きながら、俺は間もなく他人になろうとしている妻に声を掛けた。

「なぁ。相手は、ちゃんとした人なのか?」
「当たり前でしょ。智さんが心配しなくても大丈夫よ」
「そうか。なら、いいんだ」 

 妻は俺の事をもう「あなた」と呼ぶ気はないのだろう。
 しかし、利己的な悲しさよりも申し訳なさが先立ち、狭い心を埋めて行く。

 十九歳の頃、当時プー太郎だった俺は幼馴染だった妻と勢いだけで交際を始め、すぐに結婚した。互いの両親から猛反対され、駆け落ちした末の結果だった。
 地元の匂いから逃げ回るようにして駆け込んだ川崎で小さなアパートを借り、俺はすぐ側にあった化繊工場へ勤め始めた。初めの数年は平和に暮らせていたが、リーマンショックの影響もあり、生活はいくら切り詰めても毎月ギリギリで相場に比べたらずっと安い家賃も滞納しがちになっていった。

 働けど楽にならなかったのはギャンブルと酒を覚えた俺が、妻との生活よりも自分の快楽を優先させていた事が生活苦の最大の原因だった。ずっと目を背けていたが、今思えばあの頃は生活ごっこをしていただけだったのかもしれない。

 競馬、パチンコ、競艇。金をスッて苛立ちながら帰る俺を、根が明るかった妻は毎度おどけて和ませようとした。そんな妻に、俺は怒りを覚え手を上げていた。
 妻の明るかった声はいつの間にか固く冷たいものへ変わり、そのうち怯え切った目で笑うようになっていた。
 家へ帰ってすぐに妻が俺の機嫌を取ろうとする度、そんなあざとい真似をさせている自分に、心底嫌気が差した。
 やがて妻が外へ働きへ出るようになると、俺とは擦れ違いの生活を送り始めた。同じ屋根の下に住みながら、言葉を交わす機会すら減って行った。

 そんな日々の最中、競馬場で馴染みになっていた予想屋の「トクさん」という六十過ぎの親父からとあるバイトを持ち掛けられた。

「智ちゃん、生活困ってんじゃないの?」
「困ってるも何も、ケツに火ぃ点いてるよ。首も回らねぇよ」
「じゃあさ、火だるまになる前にアルバイトするかい? カンタンなもんだよ」
「バイト? 取っ払いならやってやるよ」
「よし、決まりだな」

 トクさんに連れて行かれた雑居ビルの事務所で、俺は自分とそう年の変わらない組員から小袋に入れられた「ブツ」を受け取った。
 分け前はこちら三割だったが、それなりに良い稼ぎになった。

 裏路地の飲み屋、深夜のゲームセンター、高級住宅街、ホテル、学校の裏通り、中古車のオークション会場、港湾作業員の集まる港、若手社長達が主催のパーティー会場、街外れの寂れた倉庫。電話一本で呼ばれれば、何処にだって小袋の入ったバッグを抱えて飛んで行った。

 売人として本格的に稼ぎ出した俺は川崎に流れ着いてからずっと勤めていた工場を辞めた。
 実入りが多い分、金遣いは次第に荒くなりアパートに帰らず飲み歩くようになった。それなりに大きな取引の直後、それまでの生活では考えられない額の金を、俺はまるで免罪符を貰うような気持ちで妻に渡そうとした。
 しかし、妻は怯えた様子で俺からの金を受け取る事を真っ向から拒絶したのだった。

「あなた、それって何のお金なの?」
「何って、仕事だよ。金は金だろ、ほら」
「それって、変なお金じゃないでしょうね? あなた、一体何の仕事してるの?」
「ったく、イチイチうるせぇな! テメェに関係ねーだろうが。大体テメェがいっつも金欲しそうな貧乏くせぇツラしてっから、金持って来てやったんだろうが! 人をナメんのもいい加減にしろよ!」
「……また殴るんでしょ? いいわよ、殴れば」
「……くだらねぇ、なんだテメェ……」

 妻は俺が知らない間に、心が大人になって自立していた。俺に媚を売る妻ではなく、完全に一人の女性になっていたのだ。
 俺は妻がきっと喜ぶだろうと勝手に思い込み、それとは裏腹に妻の心配を誘うような事ばかりを繰り返していた。

 子供のまま何一つ成長していない自分と、知らない間に勝手に大人になって行く妻に腹が立ち、俺は妻を殴った。
 そして、部屋中に金をバラ撒いた。ゴミ箱の中に数枚の万札が落ちているのを見ても、心はちっとも痛まなかった。
 けれど、泣きもせず淡々と殴られ続ける妻の姿に、殴りながらも心は痛んでいた。

 なぁ、俺達どうしてこうなっちまったんだろう。いつから、こうなっちまったんだろう。
 そんな簡単な問い掛けをする勇気すら持てなくて、逃げるようにして俺は殴り続けた。殴れば殴るほど、掛けがえのないはずだった小さな絆が遠ざかるのを感じていた。

 それから間もなく、馴染みの洋品店の店主から「質があからさまに悪い」とクレームを入れられた。プライドが高い、ブランド志向のおばさまだった。
 俺はその時のブツを自分で試し打ちしてみたが、いつも通り脳の隅々まで目が覚めるような、全身の細胞が冷たく冴えて行く感覚に陥った。なんだ、あのクソババア。俺に吹っかけるつもりか。

 俺はすぐに洋品店に出向き、店の奥に居た店主を呼び出した。この成金クソババア、ナメやがって。手加減しねぇぞ。
 脅すだけのつもりが気が付いた時には既に手遅れで、ババアはひん曲がった鼻から血を垂らしながら警官に抱かれていて、俺はめちゃくちゃになった店内の床に押さえつけられ、転がっていた。

 暴行、器物破損、覚醒剤の使用、所持、営利目的での売買。
 俺には以前暴行で現行犯逮捕されていた前科もあり、妻が日常的に暴行を受けていたと裁判で証言した事も手伝い、判決が出た俺は弁当なしの一発実刑となった。 

 出所が見えてきた頃になり、妻はようやく面会に訪れるようになった。手紙は何度送っても、ただの一度も返事は無かった。アクリル板の向こう、ほうれい線が浮かび始めた妻が微かな声で言った。

「私ね、別の人と結婚しようと思うの」
「……反対できる立場じゃないし。おまえが幸せになるなら、そうしろよ」
「ごめん」
「いや……」

 当然の事だと思った。寧ろ、今まで散々妻を殴り続け、心配を掛け、縛り付けていたのにも関わらず、何で俺から逃げ出さなかったのか訊ねたくもなった。

 俺よりも先に保証人欄の埋まった離婚届に全ての事柄を記入し終えると、塀の中に居た頃からずっと気になっていた事を妻に訊ねてみた。

「川崎に居た頃さ……何で俺と別れなかったんだ?」

 煙草の煙を深く吸い込むと、まだクラクラした。久しぶり過ぎて身体が慣れていないのだ。
 妻はバッグの中に離婚届を仕舞い、俺の目を真っ直ぐに見詰めながら言った。

「智さんがね、初恋だったからよ」
「それだけ?」
「私にとっては、大切な事よ。だから、たった紙切れ一枚でも、ちゃんとけじめを付けたかった」
「そうか……」

 手を繋いで走りながら電車に飛び乗った十九の夏を少し、思い出す。
 あの頃、俺はこいつを死ぬまで守ろうと、そう決めていたはずだった。死ぬまでずっと幸せにしてやろうと、そう想っていたはずだった。

 初めて住んだアパートの小ささに俺達は声を立てて笑ったり、おっかなびっくりしながらガステーブルを設置したり、スーパーで手に取った物の値段と延々睨めっこをしてみたり、コインランドリーの洗濯が終わるまでの間、手を繋いで慣れない街中を散歩したりしていた。

「涼子、駅裏にスーパー出来たの知ってる?」
「おっきなスーパーでしょ? でも、あそこ高いみたいだよ」
「高級志向ってやつか。じゃあ、次の給料入ったら値段見ないで好きなだけ買い物しようぜ」
「いいよ、もったいないよ。いつもの安いスーパーで十分です」
「えぇ? いいのかよ」
「いいの。値段じゃないの。一緒に食べるから、ご飯って美味しいんだよ?」

 あの時の俺は、涼子になんて言葉を返したんだっけ。
 その言葉は思い出せなくても、きっと二人で微笑んでいたはずだ。

 何で、今の今まで思い出さなかったんだろうか。俺は、いつ忘れてしまったんだろう。とても小さくて、すぐに見えなくなってしまう記憶ばかりが、今さらになって次から次へと思い出されて、自分で壊しておきながら、その傷だらけの姿を堪らなく愛しく感じてしまう。

 妻の中にはきっと、あの頃の思い出があの頃のまま、ずっと大切に仕舞われていたのかもしれない。共に作り上げた全てを壊した俺とは別に、新たな幸せを見つけた妻を俺は見送る事しか出来ない。

 妻の中の俺は、もう消えてしまった方が良い。俺も、きっとその方が良い。嫌でも記憶は残るだろうが、その方が互いの為なのだ。そう思っていると、俺は自分でも考えもしていなかった言葉を口にしていた。

「なぁ、涼子」
「何?」
「思い出に、よろしくな」

 言った直後に自分で驚いた。俺は一体、何を言っているんだろう。
 余りにも馬鹿なセリフじみた言葉に焦りを感じたが、涼子はまだ恋人同士だった頃のように俺を向いたまま目を見開いた。
 そして、まだ友人だった頃のような屈託のない大きな笑い声を立てた。

「あはははは! 何よそのセリフ、くっさいの!」
「いや、自分でも良く分からないんだ。とっさに出て来て」
「あー、おかしい。やっぱり、智くんは相変わらず面白い人だったわね」
「いや、どうしようもない奴だろ」
「そうね。それでも私は、愛していたわよ」
「……本当に申し訳なかった。迷惑と心配ばかり掛けちまって」
「あなただけで選んだ過去じゃないから、仕方ないわよ……でも、うん。もう会う事はないと思うけど、元気でね」
「涼子も、幸せにな」
「ありがとう。明日、紙は届けて来るから」
「あぁ、頼んだよ」
「思い出によろしく言っておくね。ほんと、おっかしいの」
「もう、やめてくれよ」
「色々あったけど、さようなら」
「あぁ。じゃあな」

 紙をバッグに仕舞った涼子は友人のような笑顔で席を立ち、俺より先に店を出て行った。そして、二度と連絡の取れない完全な他人になった。

 塀の中でも思い出さなかったのに、涼子が居なくなった途端に様々な思い出が嘘のように蘇ってきて、俺はようやく自分の犯した過ちの大きさに気付いた。その後、二時間近くも席を立たず、雨の降る窓の外をじっと眺めて過ごしていた。

 席を立って夕暮れて行く店の外へ出ると、傘立に入れておいたはずの傘が無くなっていた。
 ここに来るまでの間に盗んだ傘は、また違う誰かに盗まれたようだった。

 大切に使ってもらいな。 

 えらく感傷的になっていたから、そんな言葉を失くした傘に向かって心の中で呟いた。
 それと同時に、判子をついた紙切れ一枚が頭の真ん中にハッキリと浮かんでいた。
 我ながらあまりに下らなくて、ちっとも笑えやしなかった。

 俺は明日の仕事の事を考えながら、工場の寮へと帰りを急いだ。
 雨は肩を濡らす程度にまだぽつぽつと降り続けていたけれど、知らない誰かの傘を盗む気にはもう、なれなかった。


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