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【小説】 駅蕎麦の末路 【ショートショート】

 関東北部に在るこの街の駅は東と南に向かう路線のターミナル駅となっていて、日中ひと気は少ないが朝から晩まで様々な電車が行き交っている。二両編成でボロボロの客車が出発したかと思えば、長い列を成した貨物列車が勇ましくホームを通り過ぎて行く。朝晩こそは人の気配も多少感じられるが、ピークを過ぎればあっという間にホームからは人影が消えてしまう。
 通勤時間が遅い私は、ホームの端に在る一軒の立ち食い蕎麦屋で朝飯を摂るのが日課となっていた。寒い朝、暑い夏の朝を問わず、鰹出汁の効いた熱い汁を啜ると堪らず「うまい」と声を漏らしそうになる。それも、毎度毎度だ。
 朝も昼も、おそらくパートでなのだろうか? 私が通い始めた頃から女性が受付も提供も担当している。昔はまだ髪に黒いものの方が多かったが、今では黒い部分を探すのが難しいほどに容姿は老け込んでしまったが、動きは昔からちっとも変わっていない。この女性は客と最小限の会話のやり取りしかしない為、長年通っているが彼女の名前すら、私は知らない。
 その朝。いつも通りに立ち食い蕎麦屋へ寄ると、店の小さな入り口で大きな貼り紙が微かに風に揺れていた。

『今週いっぱいでここを終わりにします。長年お世話になりました』

 唖然としてしまった。幾ら何でも急過ぎると思ったが、女性の年齢を考えればこれもやむを得ないことなのだろうかと一旦、思考が立ち止まる。これから先、こんな風にして消えてしまう店が増えそうだ。
 私はいつも通りに朝食代わりのたぬき温蕎麦を注文する。

「はい」

 と無愛想に応え、提供の準備に取り掛かる彼女は今、どんな気持ちなのだろう。もっと、ここで店を続けたかったのだろうか。それとも、体力の限界を感じたのだろうか。または、やるべきことをやり切ったような心持ちなのだろうか。

 何となしに眺める目線の先には、湯気が立ち昇る大きな鍋の中へ蕎麦を入れる皺だらけの生きた指先が映っている。私はその瞬間、ここへ通って以降初めて彼女に声を掛けてみることを決心した。

「ここの蕎麦屋、なくなっちゃうんですか?」

 私は、無意識のうちに彼女の重たい返事を期待していた。ところが、返って来た彼女の声は実に軽やかなものだった。

「そう、ここでやるのはもう今週でおしまいなの!」
「……そうですか」

 努めて明るい声を出している、というよりは清々したような声にも私には聞こえた。だとしたら、何だか残念な気分にもなる。
 小さなカウンターにいつも通り旨そうな鰹節の香りを立てる温蕎麦が置かれると、彼女は続けてこう言った。

「来月からね、駅前でお蕎麦屋さんやるのよ。だから潰れるんじゃないから、また食べに来て頂戴ね! 今度はね、後継の息子夫婦と一緒だから。こんな狭い所じゃもう、婆さんは大変なのよ」
「あぁ、そうだったんですか。行きますよ、絶対に」
「また食べに来てね。場所は変わっても味は変わらないからね!」

 彼女はそう言って、腰を曲げながら小さな厨房で皿洗いを始めるのであった。
 
 その翌月。ホームの蕎麦屋が閉店した代わりに、駅前に新しい二階建ての蕎麦屋が開店した。狭い厨房で腰を曲げつつも活発に動いていた彼女は広々とした店内でまだ中年まで行かないくらいの年の女と、若い男にあれやこれやと指示を出していた。
 私の姿に気が付くと、彼女は如何にも親しげに明るく声を掛けて来た。

「あっ、来てくれたのね! この人はね、昔からちょっとズレた時間に食べに来てくれてた常連さん。ねっ、ずっと来てたもんね? 今日もたぬきで良いのね?」

 ろくに話したことさえ無かったのに、途端に饒舌になって話す彼女の姿に、私は底知れない人の浅ましさのような、そんな居心地と気味の悪さを感じてしまった。
「あなた達と違って、私はこの人を知っている」
 他の店員達へ向けてそう言わんばかりの勢いに、自然たじろいでしまう。
 提供された温蕎麦には以前ほどの出汁の香りが感じられず、味は変わらないと言っていたはずの彼女の嘘に辟易としそうになった。

「ごちそうさん」

 半分ほど食べた所で私は店を出た。空いていたテーブルに腰かけながら、ワイドショーに見入っていた彼女は立ち上がり、愛想良く私を見送った。
 立ち上がった彼女は丼の中に半分ほど残る蕎麦に気付く素ぶりすらなく、私に「毎度」と、声を掛けた。
 引き戸に手を掛けた私は愛想の代わりに小さく頭を下げ、こう返した。

「まずかったよ」
 
 彼女には聞こえていなかったのか、「ありがとうございましたー!」といくつか重なった機械的な声が私の背中を見送った。
 その蕎麦屋に通うことはそれからもう、二度となかった。

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