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【小説】 夕飯を思い出したい私は、何も知らない 

「十七歳なんだ? いいじゃん、飲んじゃいなよ」

 大学生のセイくんはそう言って、私の頭を軽く撫でた。
 すぐにやって来たのは無感情・無感動の感触で、その次にやって来たのはセイくんが頼んだはずの生ビールだった。
 「いっちゃえ」と笑ってから、セイくんはキンキンに冷えていそうなジョッキを私の目の前にドンと置いた。

 お酒を飲むのは初めてじゃなかったけど、ビールを飲むのは初めてだった。やっすいカラオケ屋でジュースみたいな妙に嘘臭い味のカンパリオレンジとか、カルアミルクなら飲んだことがあったけど、とにかく、ビールは生まれて初めてだった。

「弥生ちゃん、いっちゃっえいっちゃえ!」
「ビール、飲んだことないんですよね」
「えー? この状況で飲まないとかないっしょー。みんな冷めちゃうかもなぁー」
「……じゃあ、飲んでみる」

 みんなはカラオケで盛り上がっていて誰もこっちなんか注目していなかった。セイくんの顔があんまりにも近いから仕方なく飲んでみると喉が刺激され、苦汁を飲まされてるような気分になって一気に吐きそうになった。私にとっては罰ゲーム、というか拷問だった。

 それでも、カラオケ屋の大部屋の隅に私を追いやったセイくんは大盛り上がりする他のみんなには目もくれず「かわいい」と、ビールの不味さに苦しむ私を見て笑っていた。両親のどちらかは鬼か悪魔なのだろうと思った。

 スケボーが上手くて、原付じゃない大きなバイクに乗っていて、仲間達と数人でネットショップの服屋をやってるとかなんとか。
 大人って感じするよねー、とか、セイくんマジカッコいいんだけど! とか、一緒にナンパされた女子達がセイくんを語る言葉はどれもこれも、ずいぶんと形の整った称賛の言葉ばかりだった。

 女子達はみんな彼に憧れてるみたいで、彼がどれほどにカッコいいか語り合うたびにクラスの男子達のことを引き合いに出し、馬鹿にしまくっていた。毎度毎度槍玉に上げられるのは、いつ見てもアニメ雑誌に目を落としているオタクボーイの横瀬だった。 

「横瀬ってさぁ、お母さんに服選んでもらってるんでしょ?」
「知ってる! つーか今日も靴下ダサくね? 真っ白のダンロップとかウケる」
「それな! あぁいうヤツってさ、友達もいないからずっとダッサイまんまなんだろうねぇ」
「つーか友達出来てもダサくてイタイ、オタ友しか無理っしょ」
「わかりみ~」

 私はそんな話題が飛び交う輪の中にいたけど、うんともいいえとも言わなかった。
 横瀬の履いてるダンロップの靴下、そんなに悪いのかな。
 真っ白でいつも清潔そうだし、きっと清潔にしているんだろう。人に見られることが分かってるから、せめて清潔にしようとしているんだろうな。はぁ、偉いなぁ。お母さんが手間暇かけてお洗濯してるんだろうか。

 そんなことを思ってたら、輪の中で一番声の大きな千明が「ロックオン」したように私を向いて、細い目を鈍く、鋭く輝かせながら言った。

「てかさぁ、セイくんマジカッコいいよね。だけどさ、セイくんって案外弥生のこと狙ってそうじゃない?」

 急にそんな話を振られて、私は全然思い当たる節も無かったからこれは否定した。あるとしたら、飲めないビールを飲まされて笑われただけだった。

「全然、何もないよ。ラインも交換してないし」
「えー! なんで交換しなかったの!?」

 キーンってする。声が大きいな。うるさいな。そして何より、どうでもいいな。

「なんでって、別にそんな流れにならなかったし」
「本当にぃ? ねえ、サエ。どうする?」

 急に話を振られたサエは「何がだよ」と笑いながら突っ込んでいる。面倒なことにならないといいなぁと思っていたけど、すぐに面倒なことになった。

 放課後になって校門を出ようとすると、校門の辺りでモブみたいな男子達が群れを作っていた。
 何やら楽しくて馬鹿なことでもしているのかと思ったら、群れの中からセイくんが飛び出して来て、こっちに向かって手を振っていた。
 男子達はセイくんの乗って来た大きなバイクに夢中だったみたいだ。
 千明が「きゃー!」とホラー映画の断末魔みたいな金切り声を出して手を振り返しても、セイくんはまだ手を振っていた。  

「弥生ちゃん! 一緒に帰ろうぜ!」

 セイくんが悪びれることなくそう言うと、男子達が「ひゅー」と冷やかしの声を一斉に上げた。中には指笛まで吹く人もいて、アレはちょっとやってみたい、何処で習ったのかなと思った。
 隣を歩いていた千明がすぐにこっちを見たことに気付いたけど、面倒だから顔を合わせないようにした。多分じゃなく、絶対に不機嫌になっているだろうから。

 セイくんと話せるだけの距離まで近付くと、サエは見るからに機嫌の悪そうな千明の手を引きながら「弥生、じゃあね」と言って先に帰ってしまった。
 私は焦った。こういう時は変に気を利かせなくていいのに、サエはいい子だから気を遣ってくれたつもりだったんだろう。

「弥生ちゃん、おうちまで送って行くからさ。後ろ乗ってよ」
「買い物あるから、大丈夫」
「じゃあ買い物も送ってくよ」
「買い物、いつも一人でするから」

 私はセイくんを避けて帰ろうとしたけど、セイくんはどいてくれない。

「言っとくけど俺、後ろ乗ってくれるまでどかないよ?」
「……じゃあ、分かった」

 本当はちっとも、全然分からなかった。周りに人が集まって来ちゃったからそう言っただけで、バイクの後ろってどうやって乗ればいいのかも良く分からなかったし、変な噂になったら相当面倒臭いなぁと思った。
 
 乗ってみるとアメリカンとかいうバイクの乗り心地は意外と安定していて、最初のうちの乗り心地はそんなに悪くなかった。
 けれど時々スピードを急に上げて「俺、うまいっしょ?」とか聞いて来るもんだから、「わからない」と答えて必死に背中にしがみつつ団地の近くまで送ってもらって、その日はバイバイした。
 命の保証のない、タチの悪いアトラクションに乗ってるみたいだった。

 お母さんが夕飯を作っていて、部屋の外から唐揚げの香りが漂って来る。私が住むのは団地の六階で、外はどんよりとした紫よりも濃い目の雲が立ち込めていて、その奥で申し訳程度のオレンジ色が街の片隅にまだ残っている。

 ベッドの上には投げっぱなしの鞄と、そろそろ季節感を失い始めるブレザーとハイソックスが転がっている。
 ラインがたくさん来ていることにが気付いて、私は枕元に置いておいたスマホを目の届かない机の上に置いてからベッドに寝転がった。

 だんだん誰かと繋がっていることを意識することも面倒になって、私は小学校の頃に集めていたギャグ漫画を読み始める。
 作中はやたらウンコばっかり出て来て、下品で最悪で、とにかく笑えた。そのうち読むのが止まらなくなって、お母さんが「ご飯だよー」とリビングから私を呼ぶ声がしてくる。それを知ってても少しの間無視をして、外をもう一度眺めてみる。
 
 どんより紫色の街中で、灯りがポツポツあちこち点いて行って、光のハーモニカみたいな電車が右から左に走って行く。窓を開けると、生暖い夜の音がした。
 団地の六階に住む私は、こんな瞬間にほんの少しだけ飛び降りてみたくなる。

 次の日、学校へ行くとモブ男子達に絡まれた。根掘り葉掘りバイクのことを聞かれたけど私には全くわからなかったし、当たり前のように聞かれた「付き合ってるの?」という質問には「ただの知り合いだよ」とだけ答えたけど、千明はそうもいかなかった。

 私が席に座った途端、隣でサエとおしゃべりしていた千明は、急にそっぽを向いて頬杖をつき始めた。ムカついているんだろうな、面倒くさい人だと思いながら「おはよう」と声を掛けてみると、サエはちゃんと返してくれた。
 けれど、千明は私のことをあからさまに無視をした。
 おまけに、私にわざと聞こえるようにこんなことを話し始める。

「私さぁ、嘘つくヤツとかマジで許せないからね。本当、最悪だよねー? 人の気持ち知ってて嘘つくヤツとかってさぁ。傷付けないとでも思ってるのかなー? 既読スルーとかさぁ、わかっててやってるってことでしょ?」

 私のことだ。
 昨日色んな人から色んなラインが来ていたけど、面倒で面倒で少しだけ死にたくなっていた私は読むだけ読んで放置していた。
 一番の負荷はセイくんだった。別れ際にラインを交換したら、メッセージだけじゃなくて夜中に電話も掛かって来ていた。勘弁して欲しかった。

 不貞腐れている千明には「ブスなのが悪いんだよ」と言ってあげたかったけど、私は言わないし、何も知らないことにする。何も知らないし、昨日の唐揚げが美味しかったことだけを思い出して、横瀬の足元に目を遣った。
 靴下は相変わらずダンロップで、相変わらず真っ白だった。
 それだけが、私を少しだけ落ち着かせてくれた。

 千明に無視されてから一週間。
 悪事千里を走るとは本当みたいで、色んな人達から無視されるようになった。
 原因はセイくんが何度断っても、バイクで迎えに来るからだ。
 モブ男子達は「バイクカッケー!」と大喜びするだけで済むけれど、あぁいうのを良く思わない女子達は当然、至極、非常に多い。
 セイくんがもしもブサイクだったら、私は女子達から無視されなくて済んだ。私はセイくんに「学校に来るのは私がハブられるからやめて欲しい」と、わざわざ丁重にお断りした。

「つーか弥生をハブってるヤツ誰だよ? 俺がガチでシメてやっから、連れて来いよ。マジ」

 私がお願いをしてもそんな馬鹿なことしか言えないセイくんに、とことん嫌気が差した。
 てめぇが来るのが原因なんだよ。わかれよ、猿の学生が。つーか学校行かねぇんならうさん臭ぇクソ眼鏡のオシャレ仲間と服のネットショップなんかやってないで、大学生らしく飲み屋でバイトでもしてデケー声出してろよ。

 と思ったけれど、ポンコツロボットみたいに「シバクシバク」ばかり繰り返すセイくんに、これ以上何もしなくてもいいですと、お伝えした。
 セイくんはしぶしぶ帰ってくれたけれど、毎日が面倒で憂鬱で仕方なくなった。それでも、毎日お腹は平気で空いていた。

 早めに帰った夕暮れ時。お母さんが帰って来ると台所でガチャガチャと音が鳴り始めて、私に話し掛けて来る。
 いつものおうちの風景。それだけは、変わらない。

「弥生、帰ってたのー? ラインしたのに」
「うんー。漫画読んでた」
「あっそう」

 ラインが誰からも来なくなっても、私は相変わらずスマホを伏せて漫画を読んでいる。
 あはは、と声を出して一人で笑っていたら、団地の下からガーッという喧しい音が聞こえて来た。
 ガーッ、ダン。ガーッ、ダン。
 誰かがスーツケースを転びながら必死に運んでいるのかと思って窓を開けて見下ろしてみると、セイくんがうちの真下でスケボーをしていた。

 セイくんは、私と同じで一人だった。オシャ臭い服仲間達はどうしたんだろう? どうでもいいけれど。いいけれど、あの人は一人でも、一人ぼっちじゃなかった。
 そんな気がしたから、私はすぐに窓を閉めた。

 セイくんはスケボーをしに毎日毎日私の住む団地の駐車場にやって来ていた。団地の人に注意をされても時間が経つとすぐにガーガー音を鳴り始めるのが本当に厄介だった。
 私は一度も声を掛けなかったし、徹底的に無視することを決めた。
 けれどラインはガンガン入るし電話も鳴るしで、漫画の邪魔をされるのが本当に嫌でたまらなかった。

 いっそブスだけど熱い想いのありそうな千明に気持ちが向いてくれたら楽なのになぁと思ったけれど、ある朝学校へ行ってみると千明がサエを相手に泣き腫らしていて、「アイツのせいだ」とかチラチラこっちを見ながらグズグズ言ってたから、きっとセイくんにフラれたんだろう。 
 サエはそんな時でも千明に「そうじゃないよ。だって恋は水物なんだよ?」と意味不明なことを言って宥めていた。やっぱり、いい子だ。

 千明がフラれた敗因はきっと、心までブスだから。
 それは本当にどうしようもないことで、私にとっては本当にどうでもいいことだった。
 そんな日でも横瀬のダンロップの靴下だけは、心がまだ定まらない十代の喧騒なんかまるで知らないように、恐ろしいほど無垢で真っ白だった。

 小学校以来久しぶりにハマったギャグ漫画の最新刊を買って帰ると、その日の夕ご飯はカレーだった。
 玄関のドアを開けた瞬間に美味しそうな匂いが鼻をついて、思わずお腹が反応した。だけど、漫画も読みたかった。
 お母さん、ちょっとヘマしてご飯の時間が遅くならないかなぁと思いながら漫画を読み始めて十分。早くもお母さんの声がした。思わず心が舌打ちを漏らしてしまう。ごめんね、お母さん。

「弥生、弥生ー! なんだか、お友達みたいなんだけどー」

 え? お母さんに呼ばれてインターホンの前へ立つと、画面には気まずそうな顔を浮かべるセイくんが立っていた。なんで、この部屋が分かったの? 気持ち悪いと思って、私はお母さんに言った。

「私、こんな人知らない」

 お母さんは頷いて、すぐに警察に電話をした。
 電話したらすぐに警察官が来てくれて、私のことをたくさん心配してくれた。特に婦人警官の人が、とても親切にしてくれた。世の中にはこんな良い女の人もいるんだな、と思ってしまった。
 クラスの人達もこれくらい親切だったら、いや、それはそれで面倒くさそう、と考えながらコトの顛末を聞いていた。

 セイくんはその日、逮捕された。
 彼はサバイバルナイフを所持していたそうだ。それを隠しもせずに手にしながら団地内をうろうろし、手当たり次第にインターホンを押していたそうだった。
 お母さんが呼ぶよりも先に、警察を呼ばれていたみたいだった。
 やっぱりセイくんがまともなのは顔だけで、他はデタラメなくらい馬鹿だったんだなぁと思いながら、だいぶ遅くなってしまった夕飯カレーを食べた。カレーがめちゃくちゃに美味しくて、子供みたいにはしゃぎたくなった。
 殺されていたかもしれないとも思ったけれど、呆気ないほど心はホッとしていた。

 次の日、学校へ行くとブスの千明が大親友ヅラで私に駆け寄って来た。

「聞いたよー、弥生! 怖かったね、すっごい怖かったよね? 弥生の身に何もなくて良かったよぉ!」

 何もなかった? は? 何もなかったなんて、あんたから無視して来たクセに、どの口が言ってんだよと思った。
 あのギャグ漫画みたいに、おっきなウンコを頭からブッ掛けてやろうかとも思った。

 人の心を平気で殺すバカ声を出す減らず口に、ウンコを詰められて窒息死すればいいのに。

 そう心の中で憂さ晴らししながら、私は千明を無視して教室の奥へ進んで行く。

「ねぇ、ホントに心配してたんだよ?」
「あ、そういうの要らない。私ってあんたよりイイ女だからさ、こういうことにも慣れていかなきゃなんだ」

 言ってやった。身体は指先まで緊張で震えたし、心もぶるぶると震えていた。怖くて声も震えていたと思う。でも、言ってやった。
 背後から、千明をゲラゲラ笑うサエの声がする。少し掠れたその笑い声が、硬くなった身体と心をちょっとずつほぐして行く。
 サエは髪が艶々で足も長いし気さくだし、カワイイっていうよりキレイな子で、とってもいい子。

 私は真っ直ぐに、横瀬のダンロップの靴下を目指して進んで行く。いつも無垢で真っ白な彼の靴下が、無性に見たくなったから。
 その足元に近付くと、靴下は真っ黒なプーマの靴下に変わっていて、私は思わず彼のすぐ真横で足を止めてしまった。
 野太い眉毛に、しじみみたいな小さな目がついていて、それがこっちを向いている。

「よ、よぉ……何か、何か用事でも?」

 私は真っ黒な靴下から視線を外して、横瀬と目を合わせる。

「気持ち悪っ」

 そう呟いて、自分の席へ向かう。
 横瀬がその時どう思ったかなんて、私は知らない。
 千明がぎゃーぎゃー何か喚いているのがうるさくて、教科書とノートを机にしまいながらダンロップの白さを思い出そうとする。
 けれど、全然思い出せなくて、はじめのうちはそれがむず痒くて仕方なかったけど、次第にどうでも良くなって、私はカレーが美味しかった昨日の夜を思い出す。


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