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【小説】 缶詰先生 【ショートショート】

 その日、鯖カレーを猛烈に食べたくなった私は近所のコンビニエンスストアへ急ぎ、レトルトカレーと鯖缶を買い求めました。
 しかし、ほかほかのご飯の上へカレーをかけて、お待ちかねの鯖缶を開けてみた所、非常に困ったことになりました。
 結果を言えば、買い求めた品は鯖缶のはずなのに、なんと肝心要の鯖が入っていなかったのです。

 何も入っていない鯖汁だけで満たされた缶であれば、ただ単に鯖カレーを諦めればそれだけで済んだのですが、実はそうではなかったのです。
 その声は、蓋を開けた鯖缶の中から聞こえて来ました。

「おい、カレー臭いな。捨ててくれるか」

 私は何度も何度も手の中にある缶の中を覗き込んでは考え込んで、覗き込んでは考え込んでを繰り返しました。
 缶詰の中に鯖は入っていなかったのですが、その代わりに文机と着流し姿の初老の作家風の男が入っていました。
 男は私を見上げる訳でもなく、黙々と机の上の原稿用紙に私がほとんど視認できないほど小さな文字で何かを書き続けていました。
 私は困り果てましたが、念の為に確認しました。

「あの、あなたは小説家ですか?」

 男は手を止めることなく答えます。

「いかにも」
「そうですか……あの、何故鯖缶の中で作業を……」
「締め切りに追われている。おい、それよりもカレーの臭いをどうにかしてくれないか。集中できそうにない」
「えっと、あのぅ……ここは私の家でして、それで昼時だったものでカレーを食べようと……」

 私の困り果てた事情を打ち明けてみると、作家はようやく面を上げました。痩身で、いかにも神経質そうな尖った目の持ち主でした。

「あれっ、なんだ。野島じゃないのか」
「え? 私は藤枝って言いますが……」
「なんだ……新しい担当か?」
「え? いや、ただの期間工ですが……」
「期間工っ? なんの期間工だ?」

 作家めいた好奇心の輝きに当てられましたが、私は取り立てて自慢出来るような仕事をしている訳でもないので、正直に答えました。

「自動車の、バッテリーを組み立てています」
「バッテリー……そうか」
「そうです」
「そうなのか」
「はい」
「うむ」

 興味が失せたのでしょう。ここで会話は途切れたきり、男は再び机に向き直ってしまいました。
 この珍品をコンビニエンスストアに持って行き、通常の鯖缶と交換してもらおうかと考えあぐねていると、男が言いました。

「すまないが玄関の外に出してくれないか。その方がインスピレーションがいよいよ爆発しそうな気がする。後で担当が回収に来るから、君は安心してカレーを食してもらっていて構わない」
「あぁ……そうですか……あの……」
「鯖缶の代金なら担当に払わせる。それよりも早く外へ出してくれないか。アイデアがこの手を通り過ぎてしまう、その前に」
「あっ……すいません。分かりました。それと……あの、どんな小説を書いているんですか?」
「官能小説だ」
「官能……」
「いかにも。今書いてる場面はだな、浄土真宗の坊主が突如宇宙パイロットになり、重力下と無重力下でメス共のイキ具合のデータ差異を割り出しているシーンなのだが、ここに来てそのイキ具合をだな、どのようにして観測するかと言う点において悩んでいるのだ。そもそもオルガズムというものが果たして一般的に……」

 作家は独り言のようにぶつぶつと何やら話し始めましたが、私は小説と言った類のものは二ページも読めば自然と睡魔に襲われる特殊体質の為、まるで興味を持てなかったのでそそくさと玄関の外へ缶詰作家を置くことにしました。
 空は曇天でしたが、外へ置かれた作家は大変満足そうでした。

 カレーを食べてうたた寝をしていると、雨の音で目を覚ましました。
 腹ごなしの済んでない状態で寝てしまった為に若干身体が怠く感じましたが、とりあえず寝起きの一本に火を点けます。
 ゆらーっと薄紫の煙が部屋を漂い始めると、珈琲が欲しくなりました。
 ただ、私はドリップするようなマメな性格ではなく、もっぱら一本百円の無糖紙パックがメインなのでした。冷蔵庫の中に珈琲がなかったので、買いに行こうかどうか、雨が面倒だの湿気が苦手だの自分に言い訳していると、あの作家のことを思い出しました。

 雨足が非常に強く、無事に回収してもらえたのだろうかと思って玄関を開けてみたところ、作家は雨の満ちた缶の中で死んだまま浮かんでいました。
 命を注いでいたであろう小さな原稿用紙は缶から溢れ、雨に破れた姿で飛散しておりました。
 私は缶を拾い上げると、しばらく迷った末に元の場所に置き直しました。
「担当」とやらが引き取りに来るのだろうし、その際に作家の亡骸がなかったら鯖缶の代金を受け取れなくなるかもしれないと危惧したのです。
 そう、私は溺れ死んだ作家を燃えるゴミとして処分しようと思っていたのです。危ない所でした。

 それから幾日経っても、担当とやらは現れませんでした。
 結果、鯖缶の代金を無駄にしてしまったのです。 
 作家は蒸発した缶の中でしばらくは死に様を曝しておりましたが、カラスがついばんで空へ昇って行きました。
 その年に初めて蝉の声を聞いた、よく晴れた午前の出来事でした。

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