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【小説】 デートどころじゃない! 【ショートショート】

 念願の初デートなのに、私は心ここにあらずの状態で助手席に座り、アウディのハンドルを握る彼の言葉を右から左へ聞き流している。彼は得意先の営業マンで、うちの会社に初めてやって来た日から私は一方的に想いを馳せ続けていた。

「エムテック株式会社の佐山祥平さん……ですね、どうぞ」

 受付を担当している私は彼を前にする度、上擦った声でしどろもどろになってしまっていた。それを隣で見ていた同僚の紗栄は「わかりやすっ!」と毎度呆れた顔で私を眺めていた。
 彼が来る度に心と身体がカチコチになってしまうから、きっと変人と思われているんだろうなぁと悲しくなり掛けていた先週。
 紗栄がトイレに立つと丁度彼が事務所から出て来る所で、入館証を預かった私はなんと声を掛けられた。

「あの、吉澤さん」
「えっ、は……へ、はい」
「下のお名前、なんて言うんですか?」
「あ、えっと……なんだっけ……えっと、優奈です」
「ゆなさんっていうんですね。もしよかったら、今度帰りに食事でも行きませんか?」

 下心ド満開のド・ストレートな誘い文句だったけれど、私は嬉しさの余り卒倒しそうになった。
 震える手でLINEを交換して、私たちは互いが休みの土曜日昼からデート(デート!)する事になった。下着も新調したし、夜の事も想定して予定もわざとズラした。 
 駅で待ち合わせをして、彼の車に乗り込むまではまるで夢の中に居るようだった。薄いグレーのスプリングコートはちょっとラフ過ぎるかと思ったけれど、彼には好評だった。

「優奈ちゃん、都会の大人女子って感じする」

 そう言って嬉しそうに私を出迎え、ご丁寧に助手席のドアを開けてくれたその刹那まで、私は夢の世界のお姫様気分だったのだ。
 彼が喫煙者だったのは知っていたけれど、車内は全く煙草の気配すらなくて驚いた。私の父親の車(中古のクラウン)なんかまるで深夜の雀荘にタイヤを付けて走っているくらい臭くてたまらないのに、なんでこうも違うかなぁ……。そう思ってしまった瞬間に、私は一気に現実の穴倉へと突き落とされたのだ。

 煙草、イコール、火。火、イコール、熱い。熱い、イコール、暖房。暖房、イコール、石油ストーブ。

 私は石油ストーブを点けたまま、部屋を出た事を思い出した。点けた覚えは死ぬほどあったけれど、消した覚えが命を懸けてもないと言い切れた。

「優奈ちゃんってあそこで働き始めて何年くらいになるの?」
「あー……えっと、今年で二十六歳です」
「あぁ、ごめん。ステレオうるさかったかな。あの会社、今年で何年目?」
「三年にならないくらい……です。あの、逆に質問していいですか?」
「うん。あ、でも年収とかはまだちょっと勘弁してよぉ? あはは」
「あの、普通の石油ストーブって自動停止機能とか付いてましたっけ?」
「え、何それ。どういうこと?」

 しまった。石油ストーブが気になる余り突拍子もない質問をしてしまった。彼は真顔になって私の質問の意図を勘繰っているようだったけれど、それらしい理由なんて何もない。だって、ただストーブを消し忘れて物凄く不安になっているだけなのだから。
 それもこれも、こんなトラウマが起因となっていた。
 私は中学二年生の冬、自室で石油ストーブを点けたまま眠りこけてしまった事があった。うつらうつらしている内に余りに気持ち良くてそのまま眠ってしまい、妙な明滅で目を覚ました。目を覚ますとなんとストーブの火がカーテンに燃え移り始めた所で、たまたま起きていた母が私の悲鳴を聞きつけ部屋に飛び込んで来た。秒でカーテンを毟り取った母は秒で窓を開けて燃え盛るカーテンを庭に放り投げると、これまた秒で反転し、叫び声を上げ続けていた私の脳天目掛けて拳骨を食らわせた。

「優奈はもう、石油ストーブ禁止やけんね!」

 鬼の形相の母にドナドナされて行くストーブを涙目で見送りながら、その晩、私は震えながら夜を越したのであった。
 それからは電気の力だけで動くファンヒーター(ぬるい)、オイルヒーター(これもぬるい)だけで青春時代を送って来た。九州とは言えど、冬はそれなりに雪が降るし、冬の寒さは関東と比べ物にならないくらい酷い。
 だからこそ、一人暮らしを始めた私がまず真っ先に買い求めたのが石油ストーブだった。 
 圧倒的な熱交換率と温もり。冬を感じさせない頼れるタフガイに私は身も心も頼り切っていて、少しでも寒さを感じると短時間でもすぐに石油ストーブを点ける癖がついてしまった。
 今日は四月八日。私にとって朝はまだまだストーブ盛りなのだ。

「俺が田舎に居た頃の経験だけど……倒れたりすれば停止するようになってたかな」

 室内干しの洗濯物の真下に湿気を取る意味も込めて、願いを込めて、私は石油ストーブを置いている。今朝も確か、何か干してあったはず。湿気はとうの昔に抜けて、からっからになった洗濯物の真下で、今朝も確実に石油ストーブは燃えていた。

「でも、地震とかがない限りは勝手に止まる事はないんじゃないかなぁ。まぁ、この時期にストーブ使う奴なんていないだろうけどさ。優奈ちゃん、ストーブがどうかしたの?」

 まず、冷静に前向きに考えてみなければならない。洗濯物がゆらゆらと、超自然現象によって落ちたとする。当然、火が燃え移るでしょう。でも、落ちたのがブラとかだったら例え燃えたとしても石油ストーブの天板の上で収まってくれないものかしら。ほら、私のは面積小さいし。何を干していたっけ……あぁ、バスタオルだった。しかも、石油ストーブに若干掛かってなかったっけ? あれ、そんな気がするけど私、そこまでズボラだったっけ? 普通気付いたら避けそうだよね? 私に聞くけど、私って避けるよね?

「ちゃん……優奈ちゃん?」
「えっ!?」
「あの……何か不味い事言ったかな、俺」
「あ、いえいえ。凄いんですねぇ、ストーブってねぇ……父が欲しがっていたのでプレゼントしようと思ってて……」
「あぁ、なんだ。そうだったんだ。でもさ、これから暑くなるのにストーブなの?」
「あの、九州って案外寒いんですよ。五月くらいまで、本当震えるくらい」
「え? そうなんだ……へぇ……」

 五月の庭先で缶ビールをグビグビやりながら「暑かぁ!」と独り言を叫んでからペェーッ! と淡を吐く父親を頭に思い浮かべた一秒後に、脳内には燃え盛る私の部屋が明瞭でクッキリとした映像となって通り過ぎて行く。あー、ダメだ。これ以上はもう嘘は付けない。家に帰りたい。いや、帰るべきだ。

「佐山さん、今から何処に行こうとしてます?」
「ほら、鎌倉行きたいって言ってたからそうするつもりだったけど」
「鎌倉ってどれくらい掛かります? 遠いんですよね」
「ごめん、予定あった?」
「違うんです。あの、私の家に来ませんか?」
「えっ」
「お願いです。そうしましょうよ、ね?」

 嘘は付けないと心に誓ったものの、恰好は付けたい。ストーブを消し忘れた危機管理能力が欠如したバカ女だと思われたら、私はきっと嫌われてしまう。呆れられてしまう。それだけは阻止したい。彼の中の「都会の大人女子」を殺すような真似だけはしたくない。けれど都会の大人女子はそもそも部屋で石油ストーブなんか点けないだろうし、完全機密住宅でエアコン一択に決まっている。

「あの……いきなり部屋ってさぁ。それ、いいのかな……」
「私の家、退屈しませんよ!? ゲームもありますし、映画観てゆっくりしたりとか良いなぁ~。あ、でも借りたりする時間も惜しいんですぐに向かってくれたら助かるんですけど。ゆっくりしたいです」
「そういうのはほら、いつでも出来るっていうか……もう少し仲良くなってからさ」
「だって、だって……普段からLINEもやり取りしてるし、こうやって二人だけで車も乗ってますし、それってもう部屋で過ごしてるのと一緒じゃないですか! ねぇ!?」
「いやぁ……違くない?」
「同じですって! 私ん家行きましょうよ、ね?」

 きっと、部屋の中は絶望的な暑さになっているだろう(焼け落ちてなければ)。彼に家の前で降ろしてもらって、彼が駐車場を探している隙に換気する。それでも暑かったら「日当たり良好なんです!」と言えば、まぁ何とか丸く収まる気がしなくもない。
 あれこれ考えつつも、気が動転しまくっていた私は彼の言葉をろくに聞こうとしていなかった。

「気分悪くしたら申し訳ないけどさ、俺ってそんな軽い奴みたいに思う?」
「全然! 全然もう、いいです! ヘリウムくらい軽いかなぁって思っても全然! 早く私の家に行きましょう!」
「家、知らないんだけど」
「カーナビ打ちますよ、さっさと行きましょう!」
「…………」
「まだそう遠くは離れてないですもんね? えーっと、このボタンをこうして……」
「あのさ、あんま勝手にいじらないでくれる? 空調の設定とか変わるから」
「大丈夫ですよ、ちょっとやそっとじゃ人は死にません。あ、これか。えっと……と、と、とー……あった。東京都、世田谷区……」

 その三十秒後。私は車を降ろされていた。

 意味が分からず彼が運転するアウディの後ろ姿を見送りながら、そういえば降ろされる寸前に彼が何か言っていた気がするし、私はとても失礼な事を言った気がしたけれど、思い出せなかった。
 タクシーを拾って燃え盛る自室を想像し、震えながらアパートへ辿り着いた。管理会社から電話が来ないようにと、心の一番奥底から願い続けた。

 アパートに着いてからバックドラフトで命を落とすのを覚悟で部屋のドアを開けると、やはりストーブは点いたままだった。けれど幸い何かが燃えたような形跡はなく、部屋の中が地獄の蒸し風呂状態になっていただけで済んでいて安心した。
 部屋の真ん中で尻餅をついた私は、ハッとなって彼の事を思い出した。

 なんで私はここに居るの? そう、ストーブを消し忘れたから。
 いやいや、彼とデートしてるんじゃなかったの!?
 私は急いでLINEを打った。

<本当ごめんなさい。もう大丈夫です。今どこにいますか?>

 返事はなかった。というか、既読すらもつかなった。
 私は夜になって行く部屋の中で何度も何度もLINEの画面を見ては溜息をついた。
 そうして夜がやって来て、私の恋は呆気なく幕を下ろした事を実感した。
 遠慮がちに、しかもそっと静かに訪れた夜が空気を少しずつ溶かして、冷やして行く。

「寒かぁ」

 部屋が冷っとした気がして点けたストーブはやっぱり暖かくて、とても優しい色で燃えていた。恋のように燃えていた。

 その色を眺めながら、こんな優しい恋の色だったらよかったのに……。
 そう思いながら、私は段々と微睡んで行く。すぐに今日の出来事や部屋の中の景色が何もかも、遠くなって行って、意識すらも遠くなって行き、あまりに気持ち良すぎて……バスタオルをしまわ……このまま……寝落……。

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