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【小説】 イエローマーケットへ 【ショートショート】

 街を三つ挟んで暮らす年老いた母から、今年も母の日のプレゼントを強請られた。

「やっぱりお金かな」

 ショートメールで送られたその文字を眺めながら、稼ぎの少ない私はドドメ色にもなりそうな溜息を吐きながら財布から一万円札を引き抜くと、机の引き出しから茶封筒を取り出して中へしまった。
 母の日のプレゼント代わりの茶封筒を渡す為、半日で三千円払えば借りられるレンタカーを借り、実家のある街へ少しの旅へ出た。
 レンタカーは箱型の軽でブレーキを踏むたびに車体が細かく振動したが、値段のことを考えれば自然と文句の一つも言えなくなるのが不思議だった。

「なら他で借りたらいいんじゃないですか?」

 そんな風に言われそうで、私は不安の種を摘みながらやたら慎重になってハンドルを握り続けた。
 実家には無事に辿り着いたものの、車を降りた途端に母が玄関から姿を現した。鍵をポケットにしまったと同時に、母がこう言った。

「悪いんだけど、車で来たなら買い物に連れて行ってくれないかい」

 私は助手席を指さし、降りたばかりの車に再び乗り込んだ。エンジンを掛けて車をゆっくりと走らすと、母は挨拶よりも先に日常で溜めたストレスを私に打ち撒けた。

「父さんが夜中おしっこするにも私のことを起こすから、神経が参っちゃったよ。介護しなきゃいけないし、何処にもいけないし、こっちが倒れそうだよ。父さん、入院してくれたら楽なのになぁ」
「疲れるのは分かるけど、介護士さんだって来てくれてるんだろ? もっと周りの人に相談したり頼ったりしても良いんじゃないの?」
「介護士さんも先生も難しいこと言うから、良く分からないんだよ。淳士がうちに住んでくれたらお母さん助かるんだけどねぇ」
「こんな何もない所、住めるかよ」

 母が何処に行きたいのか分からないまま、しばらくは介護疲れ来る愚痴が延々と続いた。
 父は持病の為に身動きがほとんど取れなくなっていたが、頭と口だけは健在かつ明瞭なので日夜身体が動かせない事から来る文句が絶えないのだと言う。

「父さんね、この前こんなこと言ってたよ」
「オヤジ、なんて言ってたん?」
「これから生きてて何かいいことあるんかなぁって、言ってたよ」
「馬鹿言ってんじゃないよ、ったく」

 人前で決して弱音は吐かない父であったが、身体が弱り切ってからは後ろめいたことを冗談交じりに私の前でも言うようになった。前に実家を訪れた際も、食事をしながら父が口元を綻ばせ、言った。

「淳士、「早く死んじまえ」って顔してんなぁ」

 自嘲めいて笑い声を上げようとした父は咳き込んで咽てしまい、食べていた物をそのままゴミ箱へ吐き出した。私は少しも楽しい気分にはならず、ただただ虚しいと感じていた。
 ベッド横に置かれた黄色い液体の入った尿瓶を思い出しながらハンドルを握っていると、ようやく母が行き先を告げた。

「悪いけど、イエローマーケットに連れて行ってくれないかね」
「あぁ、いいよ」

 イエローマーケットは地元野菜の直売所や民芸品屋、農機具売り場や雑貨屋が並んだ田舎の小さなショッピングモールのような場所だ。父がそこで売られている名物の稲荷寿司が食べたいと言っているらしかった。
 車を走らせてから約三十分でイエローマーケットへ着いた。土曜日だということもあり、満車に近い状態の駐車場には他県ナンバーの車が溢れていた。多くの客は父と母と同じ年ほどの老夫婦の姿が目立ったが、私は自分の両親と無意識に比べてしまいそうで、楽し気な顔ぶれからすぐに目を逸らした。
 小さな販売所で売られている稲荷寿司は既に売り切れていたが、母は代わりにおこわ弁当を買っていたようであった。母の背中に声を掛けようと近付いてみると、店員の高齢者の女性と何やら楽しげに話し込んでた。どうやら知り合いだったようだ。
 店員の女性は身体を壊し、最近目から突然出血して一時入院していたのだと話していた。それでも、働くことが楽しいから週に一回だけこうして働きに出ているのよ、とも言っていた。言われなければそんな身体であることは分からないほど、明るい声だった。しかし、その身体は痩せ細っていた。 
 話しが尽きなそうなことを察した私は隣接するひと気のない民芸屋へ足を踏み入れてみる。薄暗い店内はBGMすらなく商品が雑多に置かれており、草刈鎌の横には子供が遊ぶゴム風船が置かれていたりと、趣に統一感がまるでなかった。サランラップが百円で売られているのを見つけ、丁度切れ掛けていたことを思い出してレジへ運んだ。レジに立つ男は障害を持っているようで、曲がった腕でも身体を折り曲げて器用にレジを打った。

「百円に、あります」

 身なりや喋り方を聞く限り、この男の人生は私には耐え難いものであることが容易に想像がついた。それでも男はたった一人でレジを打ち、私への対応が終わるとレジの右手にある棚で作業を始めた。搬入されたばかりのゴム手袋を箱から取り出し、ひとつひとつ丁寧に商品を眺め、棚に陳列し始める。尻ポケットからぶら下がるタオルで汗を拭うのを眺めている内に、私は何故だろうか、泣きたいような気分になった。そんな気持ちで懸命に汗を流して働く男を見つめ続けてはいけないと思い、私は店を出た。
 店を出ると、高級外車から降りて来たポロシャツを着た男と真っ赤なワンピースを来た老夫婦が歩き出し、話し始めた。

「ここは稲荷寿司が有名なんだってよ」
「でも、障碍者が作ってるんでしょ?」
「……らしいな」

 男は腹の底の黒さを隠しもしない嫌な笑い声を交えながら、答えていた。私にはその声が聞こえていたし、聞こえているのを意識したような意地の悪い笑い声だった。 
 私の胸の内からは、意図していない言葉が次々と浮かんで来た。

 ここの稲荷寿司は、地元農家のお婆さん達が作っているんですよ。
 ここで働く人達は、みんな懸命に働いていますよ。
 ここで生きてる人達にも、明日はやって来るんですよ。
 ここの人達だって、人間なんですよ。

 しかし、私の口から発せられた呟き程度の小さな言葉は

「帰れ、馬鹿野郎」

 という元も子もないような、そんな一言だった。
 私は視線を変え、小さなビニール袋を下げて駐車場を彷徨う母に向かって手を挙げた。
 家へ送る車内で母に茶封筒を渡すと、母は慇懃な程に頭を下げた。そして袋の中からおこわの握りが二つ入ったパックを取り出すと「家に帰って食べな」と差し出した。車は実家へ続く真っすぐな国道を走っていた。天気がやたら良い日で、五月の車内はクーラーを付けなければ耐えられないほど暑くなっていた。私は「あぁ」とだけぶっきらぼうに返事をして、ダッシュボードに仕舞っておくように母へ言った。
 道はどこまでも真っ直ぐで、高速道路から下りて山の方へ遊びへ出向く人達が渋滞を作り始めている。母は静寂の合間、途切れ途切れに私への感謝の言葉を伝え続けていた。実感へあと一キロほどの所で、道路が詰まり始めて来た。ブレーキを踏んで振動を感じながら、速度を徐々に落とす。母が「本当に……」と言葉を置いてから、再び短い感謝の言葉を呟く。私は前を眺めながら、慣れた道で運転に集中するフリを続けている。

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