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"死"の権利は誰のもの?

どうも、TAKESHIです👍

本日は、
医療福祉の世界に関わって約7年。


そんな僕が、
医療現場で働いてきて感じた

【死の権利】

についてお届けします。



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【死】

それは生きとし生けるものに
必ず訪れるものですね。



以前は病院で、
今は高齢者施設で。

そんな感じで
働いてきた僕ですが、

どの現場でも必ず
死の現場に向き合ってきました。



そんな場面で
よく考えることがあります。


それは、

【死の権利】
は誰のものか

ということ。



病院や施設では。

大抵病気が進んでしまい、
治療の施しようがなくなったり、
老衰であったり、

いわゆる終末期を迎えて
余命宣告がされる時があります。



その時に必ず質問されるのが、

「延命希望するか、しないか」

ということ。



そのままの状態で
積極的な治療をせず
見とる場合もあれば、

点滴などで投薬を続けたり、
呼吸器を使用したり、
可能な限り延命を試みる場合もあります。


そこでまず、
僕が疑問に思うのは、

なぜかその話を
"家族だけ"
に先ず行うということ。


先ずは家族と話し合って、

それから本人に告げたり、
どう伝えるかを打ち合わせる。


そして、
本人の意向も確認する。
(意識が無い状態の時などは、本人に話せないこともある)



時に、
家族との話し合いの結果、

"本人へは最期まで告知しない"

という選択がされることがある。



家族が良いと言ったり、
家族が本人に話さない限り。


どれだけ本人が苦しくても、

「私はどうなるの?」
と聞かれたとしても、

ただ話を聞いて、
真実を伝えることができない。



もちろん、
家族の意向よりも、
本人の意向が
優先されることもあるが。


なぜか家族の都合で
本人の意向が反映されない
現状もある。


急な出来事とかで意識が無かったり、
認知症等重度で、
理解が困難な場合はまだわかる。


でも、
本人の意向の無いまま
進められる医療に
どうしても疑問がでてきてしまう。



そして、

【死の権利】

は誰にあるのかと、
感じてしまうことがある。



海外の医療現場では、
病名でも治療の方法でも、
もちろん余命のことであっても、

先ずは本人の意向が
尊重されることが多い。


その上で、
本人が家族へどう伝えるかを
話し合ったりする。


でも、
現在の日本では、
まだまだ家族優先だ。



自分だけの体じゃないとか、
周りの人に支えられて自分がいるんだ、

とか。

いきなり告知されて、
本人の気が動転してしまうかも。

だとか。



そんな考えが、

本人の生死という
重大な出来事を
他人に選ばせる現状を
巻き起こしているように思う。



確かに死を考えるのは、
勇気が必要なことではあるが。


それでも、
自分の意志や理想があるならば、

そこから逃げずに考えてほしい。
とことん向き合ってほしい。



延命を望むか、
看取りを望むか。


本人の意向を
優先できるようになってほしい。


自分の意向を
大切な人たちと話し合ってほしい。



もちろん、
延命や看取りといっても、
いろんな選択肢があるはずだ。


点滴はして欲しいけど、
呼吸器は必要ないとか。

ご飯は可能な限り食べたいけど、
点滴や経管栄養は必要ないとか。


それぞれがそれぞれに、
どうしたいかという思いは
必ずあるはず。



全てが望み通りになるかは
わからないけれど。



【死】

という概念は、
とても崇高なものだと思うし、

場合によっては
あまり触れてはいけないような
禁忌的な扱いをされることもある。



じゃあ、
死の権利を
他人に全て預けても良いのか?


そんなことはないはずだ。



怖い気持ちもあるだろうけど、

【死】
という必ず訪れるその時ですら
自分らしくいられるように。


もっともっと、
【死】
というものに向き合ってください。


死と向き合うことは、
生きることに向き合うことと
同じだから。



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ちなみに僕の理想は、

"真っ白な日当たりの良いお部屋で
何もなく静かに過ごす"

ことかな。


愛する人が居てくれたら嬉しいし、
窓から海が見えると良いよね。

綺麗なお花なんかが
飾ってあると嬉しいし。

穏やかなクラシックとかかかってると
気持ちいいかもしれないな。

どうか、
自分の死を
見放さないでくださいね。


死を迎えるその時まで、
あなたらしくいられますように。



ありがとうございます
m(_ _)m

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パフォーマー×スピリチュアル×LGBTQ×看護師!様々な分野を通して自分という人間を表現しています。世界をボーダーレスに。自然と調和して生きよう。