映画から眺めるインド社会③ LGBT∞が連帯し得ない地平

今回のテーマは、LGBT∞という集合体の虚構性が見えて来てしまってつらい私のお気持ち表明と、文句である。

インド映画において、LGBT∞は様々に表象されて来た。むしろ「こんな大胆な表現があったのか」と驚かれる程である。その長い歴史については書けないが、現状、欧米仕込みの虹のパワーで皆が幸せになれるという物語に共鳴しているボリウッドと、同性愛者を公言した監督リトゥポルノ・ゴーシュを擁したベンガル映画が突出しているため、他の言語圏での様相は偶然見つける程度(例えばテルグ赤色映画の『Orey Rikshaw』に、悪徳政治家の取り巻きの中にあからさまなオネエがいて最後裏切られて殺害…というね、「また同性愛者が死んでいる!」と皆が起こりそう)。

ボリウッドが見せてくれる夢

Badhaai do』(2022年、ヒンディー語)、日本でもコロナ直前に上映された『結婚は慎重に!』、トランス女性と恋に落ちた男性の醜態を描く『Chandigarh Kare Aashiqui』等がある。これらの作品の裏テーマは、「男が家族共同体から自立しないことには何も進まない」ということである。更に、『Badhaai do』では女の方が男よりきつい状況も垣間見える。

Netflixの他の公開作(例えば『コバルトブルー』『LOEV』(NETFLIXから消えた?)を観ていても、ボリウッド映画を観ている限り、欧米の脈絡から眺めても違和感がない。ボリウッドの大御所となった映画監督・プロデューサーのカラン・ジョハルは同性愛者であることを隠してはいない(はっきりいつ言ったというのはよく分からないw。姐さんの中では隠したことなんかないのかも)し、Netflixの番組でもゲイ男性のお悩み相談を受けているが、既にインドの都市部の若者にとって、同性愛者は奇異な存在でもないようにすら見える。

重めの作品としては、『Aligarh』もある。この映画では、ブラフミンカーストの大学教授が同性愛者なのがバレて大学の職を追われる実話をもとにした作品。ホモフォビアが介在しているものの、彼は同僚たちとの競争において破れ、抹殺されたのだと読めるのが興味深くもある。

ベンガル映画『Nagarkirtan』の毒

ボリウッド映画が基本的に明るい未来を見せてくれる…つまりこの分野においてもみんなで見られる夢をその都度映し出してくれるのに対し、リトゥポルノ・ゴーシュを産んだベンガル映画は、あんまりいい夢ばかりを見せてくれてはいない。

私がなぜ今回LGBT∞のテーマを取り上げたかというと、インドにおいては用語上若干ややこしい状況にあるからだ(はっきり区別できている人はよいが)。それは、インドのパスポートに表記される「Transgender」と、グローバルに使われるときのTransgenderの指し示す意味がかなり異なっているということである。

インドの「Transgender」は、第三の性と呼ばれ、女性でも男性でもない、所謂「ヒジュラ―」の存在を制度的に受け入れるために使われた用語である。彼らの様子は、インドの町でオートリクシャーに乗ったり、バスターミナルにいると見えて来る。女性の服装をし、概ね集団で現れ、人々に祝福を与える代わりにお金を要求する。その形でインドのヒンドゥーの社会に埋め込まれているとも言えるし、その形以外での存在が理解されないという限界も持っている。第三の性を認めた、というのは、当時私も、「先進的なんだ」と錯覚したが、彼らをあの仕事と生活スタイル(家族から離れて彼らだけの集団を作って生活する)に縛り付けるものでもある。私には、はっきりとどうなればいいとは言えない。

記事としてのバランスの悪さを呑んでも今回紹介したいのが、ベンガル映画『Nagarkirtan』(ベンガル語、2019年)である。

あらすじ:地元で高名な宗教音楽一家出身で、コルカタで一旗揚げようと奮闘するもうまく行かず、しがない中華料理のデリバリーの仕事をする青年マドゥと、裕福だが同性愛を認めてくれない家族と地元を捨ててヒジュラ―コミュニティに逃げ込み、ヒジュラ―になろうとしているゲイの青年プティ。二人は愛し合っているものの、少しずつずれた積み木を重ねて来た二人の迎える結末は…。

「誤った」選択は周りのせい?

本作を紹介したい理由の一つは、本作が意図せず「利害の異なる性的少数者は痛みを分かり合う以上のことができるのかという非常に重く厳しい問いを突き付けているからだ。これは先進国のLGBとTQの間において今最も先鋭化しているポイント(であるが故に連帯の夢を見たい人が是が非でも否定しなければならない見解)でもあるのだが、インドにおいては、伝統的枠組みである第三の性のコミュニティが、「トランスセクシャル」や比較的新しい主体である「ゲイ」という存在の利害とかみ合っていないということを痛々しく見せている。

プティはそもそも同性愛者で、地元で近所の先生と恋愛関係にあった。先生にプティが訴える言葉が象徴的だった。「アメリカに行こう。アメリカなら結婚できるんでしょう」。この断片的かつ浅はかな望みを「先生」という年上の男性に見ているというところが、いかにもインフォーマル・セクタ―的な発想である。先生なら何でもできると思ったのだろう。しかし、家族の意思に従い、先生は何とプティの姉と結婚してしまう。プティの心はずたずたになり、家を飛び出し、都会のヒジュラ―のコミュニティに逃げ込んだのだった。

修行中の音楽家マドゥは、そのヒジュラ―コミュニティの上の階に住み、音楽の修行とアルバイトの合間にプティと逢瀬を重ねる。「女性になってほしい」と繰り返すマドゥに対しプティは何とも言えない顔をする。ヒジュラーコミュニティにいる以上、ヒジュラーに「なる」必要があり、別の角度から「女性」になる…というか「男じゃなくなる」ことを求められている。どうしても去勢手術(≒性別移行手術)が必要だ。その相談をしに、著名なトランスセクシャルの女性に会いに行き、アドバイスを乞う。彼女は「手術の痛みは、その前に感じていた痛みほどではない」というのだった。これにより、プティの性別移行手術は既定路線となる。あとはお金だ…。

ここまで来て、おや?と思わないだろうか。奇妙なことに、アビゲイル・シュライアー著『トランスジェンダーになりたい少女たち』の中で紹介される先進国の中流(そして多くは白人の)家庭の少女たちと似ていないだろうか。(映画では最後の方にならないと分からないのだが)プティの間違いない選択かと思われたヒジュラ―でいることが、後半になるにつれて、プティの意志が二人の関係から阻害されているように感じるのだ。そこが痛い。

先進国においてそれは、お金も住む場所もある少女たちの所業として「情報過多な状況の中の洗脳的な「グルーミング」の結果だ」という何とも情けない評価を下されている。女性の身体を否定したかった少女たちに主体性は認められないらしい。全部親の監督不行き届き、そして、社会状況のせいにしている。そりゃあ、TやQの中にモンスター性を読みたくもなろう。

他方、インドのプティは、お金がない、理解をしてもらったりすねをかじる対象である自分の家族すらいない。そんな中で主体性なんてお笑い種だ。あまりに不確実性の高いインドにおいて、「これしかないんだ」と思い込んだ弱者層の浅はかな選択は私の目には理解不能なことがあるが、それが現実なのだ。

プティもマドゥも男性だが、弱い。男がどうしようもなく軟弱であるが故に自分も周りも傷ついてしまうということを(せいぜい10本位の作品しか観ていないが)ベンガル映画は執拗に描いている。社会のどうしようもなさともリンクしているのだが。

性的少数者を抑圧・搾取する別の性的少数者

プティはマドゥの求めにより「女の子」の振りをさせられる。後半、それがつらいんだということがじわじわ分かってくる。マドゥの実家で女の子として振る舞う様子や、女装がばれてしまう瞬間の残酷さ。

プティ自身は「女として生きること」(ヒジュラ―として生きることとの間の曖昧さ!)を受けいれ、同時に困っているように見える。主体性というものを発揮するだけの条件(お金だよお金!)が揃っていないとも言えるかもしれない。収入はほとんどないのだ。

また、一度入った以上、掟に厳しいヒジュラ―コミュニティを離れることは厳禁、また別の「縄張り」で勝手にお金をもらうと別のコミュニティからリンチの対象にされる等、極めて過酷だ。プティは結局、マドゥの家族から冷遇され、ヒジュラ―コミュニティからも迫害される。プティがヒジュラ―または女になり切れないからだ。

プティは自分の家族≒ノーマリティからのみならず、よりによって、性的少数者の集団や、それを差別しない人から「ゲイであること」を否定される構図になっている。これはどういうことなのだろう。インドが先進国と同じように成熟していないからだろうか。正しい知識が増えれば、自然とマイノリティは連帯できるようになるのだろうか。

或いは、プティは自分の性自認に気がついていないだけと評するべきなのだろうか。表現されていなくても存在しているんだという読みに沿うならば。

前述の映画『Aligarh』の大学教授と、プティのおかれた状況はどちらも悲惨だが、状況は雲泥の差だ。これが一国の中で起きているインドで、LGBT∞運動が、貧困と社会階層の隔絶を前提とした展開をするだろうということは明らかだ。

何度か言及してきたアンチ・ボリウッドの旗手アグニホトリ監督が同性婚に寛容な姿勢を示している状況は、インドのどの部分を代表しているのだろうか。ブラフミンの大学教授は職を追われることなく、恋人と過ごすことができるようになるだろう。

しかし、家族の了承も得られない、自立するだけの仕事や収入もない大多数の人々にとって、ボリウッドの語る世界は、プティが口走った「アメリカ」と大差ないだろう。

インドから世界の真実が見える?

私は今でも「連帯」を信じたいと思っている。だからこそ、表面的な連帯はひどく危険で、時に、内部の亀裂を押し隠す動機になってしまうというこの世の道理の哀しさを伝える必要があると思う。

インドでは「ひどいな」と思うことが多い。言い換えればそれが世界の真実なのだ。真実を隠さない。インドに来て色々と苦痛を感じる先進国の私なんかは、日本で真実を隠すことに慣れ切っているだけである。

同性愛者は他の性的少数者とは断絶した存在。日本でも今まで曖昧にしていたそういう事情が、LGBT∞運動の余波の中で明らかになりつつある。LGBTは解体されるのだろうか。

また、貧富の差や階層格差がそのまんま、幸せなLGBTライフと、全てに拒絶される地獄のような状況にスライドされているという悲惨さだって、実は世界の現実だ。インドだけのことではない。この状況でブルジョワ出身の私が何を言えるんだろう。でもインド映画は、相変わらず一国の中で信じられない程の格差があるということを隠しもせず、描き続けるだろう。


追伸:何かを誤魔化したいアカデミー賞

あれほど多様性を謳っていたアカデミー賞は、『ナチュラル・ウーマン』(2017年、チリ)以降、TやQを真正面から捉えた映画を取り立てていない。そして、日本の映画批評家たちはびっくりする程そこにツッコミを入れない。「真実」なんか期待できるだろうか。

特に鈴木みのりさんの文章は、クィアという言葉で色んなことを包摂しているせいで、トランスジェンダーだとはっきり分かる人を主軸にした物語が全くオスカーの戦線に上がっていないにも関わらず

そもそも就労面でシスジェンダーで異性愛の俳優と比して機会を得にくいクィアな俳優や作家たちが、異性愛規範が強固な業界で仕事を続けるために、虚飾的でもあるとはいえ権威にあやかろうとする例もあるかもしれない。一方で、賞レースに迎合するのが俳優としてのキャリアにおいて、果たして望ましいのか?
ただ、賞レースの盛り上がりを通じて、作品が観客に届きやすくなるのは事実だ。月並みな話になってしまうけれど、そうしてクィアな物語、クィアな人々の映画業界での活躍が、それを必要とする観客に届き、少しずつでも規範への抵抗が広がっていく歴史の過渡期にあるのが今年の『アカデミー賞』なのかもしれない。

『アカデミー賞』主要候補作をクィアの視点で読み解く。

と書いているのは驚きだった。「権威にあやかろうとする例」とは何のことを言っているのだろう。「規範への抵抗」をするならば、こんな中途半端にLGBだけを描き、それ以外をサブキャラに留めている作品ばかりを取り立てて「クィアを分かってます」みたいな態度を取っているオスカーをけちょんけちょんに非難すべきではないかと思う。むろん「ノンバイナリー」とか「パンセクシャル」「性自認」等一切外から分からないんだから、描いている可能性あるだろう、なんて甘っちょろいことは言うべきではない。はっきり分かるように、ぐっちゃぐちゃの内面をぐっちゃぐちゃのまんま外にぶつけ、規範なんか無視して破壊する映画こそ、アカデミー賞は取り立てるべきである…くらい言わないってことは結局…と意地悪い私は思っている。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?