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映画から眺めるインド社会⑤ 田舎の因習は過去のもの?

あの頃より今がよい

映画は我々の集合記憶を反映している。革命や戦乱等で大きな価値観の変動を経た社会の映画が過去を描く場合は概ね進歩主義めいている。ハイパー進歩主義に達したスペインであれば、クィアな欲望が抑圧され虐げられていたが故に加害が起きるのだという物語を描くわけだし、北朝鮮・韓国であれば「日本帝国主義は徹底的に我々を滅ぼそうとしたが潰えた」という陰謀論で振り返るし、インドならば、反植民地闘争を様々なレベルで描くし、日本ならば戦前戦中を重苦しく描く

もちろん自民党支持者なら「あの悪夢のような民主党時代」と振り返るわけである。

ところで我々は、過去に言及するときに「あの頃はよかったなァ」と言ったり、「あの頃には絶対に戻ってはならない」と戒めたりする。生暖かい懐古趣味と、倫理的で教訓的な態度は表裏一体ではないのだが、我々の脳裏で時折オセロのようにひっくり返ったり、奇妙に絡んでいたりする。

前者は、ずっと大事にしまっておき、時々引っ張り出して磨き続けられるし、後者の場合「我々をこんな目に遭わせた奴ら全員死刑ィ」という怒りの共感という快楽を堪能できる。多くの場合それらは不可分だ。「後悔」や「罪悪感」も混ざって絶品になるのかもしれないし。

そういう意味で、「80年代や90年代を振り返る」インド映画には何が描かれているのだろうか。「今お前たちはこんなに便利で豊か(とは言え市内バスは酷い有様)で暮らしているが、父さんお母さんが子供の頃は…」と子供に語っているようにも見える。

地主支配の粉砕物語が示唆する現在:『KANTARA』

『Kantara』は、カルナータカ州の一部地域に存在する信仰をテーマにした作品で、1990年を舞台にしている。

本作を形作る要素は、①ギャング化した地主への抵抗、②慣習法と近代法の衝突、③カーストの意識、④ヒンドゥーと二重になった宗教である。①②が物語の骨子を作り、③と④が舞台設定を作っている。

その中で最も私の目を引いたのは、②を地元の神的存在(Demigodと字幕が出ていたので所謂神様とは違うはず)が仲介・平定するという結末だ。森林法により国家所有となった森林は、元々住民が薪を集めたり猟をしたり、木材を伐採して売ったりしていた場所であった。それ故に住民と森林局の利害、つまり慣習法と近代法が衝突する。これが物語前半の骨子だ。そこで、本作では近代法と慣習法の両方をバランスするのは地元の信仰する神的存在だと結論付けた!これ以上の地元称賛があるだろうか

ところで、鈴木正崇は「南インドの村落における儀礼と王権」(2013年)で、

大地の祭祀の担い手であるアウトカーストの人々は現在は上位に対しては不浄とされているが…(中略)…コーラやネーマでは現実の社会階層や地位は一時的に逆転され…(中略)…一時的にではあれ、社会的な差別や不公正を受けてきた被支配者や被抑圧者の主張や怒りが、憑依や宣託という回路を通して表現される。過去の対立や抗争の出来事が語られることもあり、祭りの場が社会的な抵抗や批判の場として活用されているとも言える。

鈴木正崇「南インドの村落における儀礼と王権 カルナータカ州南部のブータの事例から」『慶応義塾大学大学院社会科学研究科紀要:社会学心理教育学:人間と社会の探求』No.75(2013)、p153より

と述べているが、まさにこの映画はその通りの語りになっている。「インドの村落において本当は誰が権力を握っているのだろう?」という問いは、「カーストはどう機能しているか?」という問いと同じ位、私にはいつもよく分からない。『インド残酷物語』が指摘しているとおり、地元独特のメカニズムがありそうなのである。

本作で出ているような村落において上位者は「金と権力」を持った地主側である。しかし、その権力が村落の信仰システムに紐づいているが故に、神的存在によって上位者の立場は容易にかく乱されてしまう。本作では笑いにもっていかなかったが実に滑稽だ。

都会に行けば信仰システムがないから、当然のように「金と権力」がギャングの顔をしてのさばっているのである。

と同時に本作が賢いのは、ヒンドゥーのモチーフをきちんと守っている、つまり、④ヒンドゥーと二重になった宗教によって③カーストの意識をそれとなく担保している点である。

地主はワルなので罰せられていい。彼が自分の家の中に身分の低い者が入って来ることを嫌がるのは「けしからん」のだが、高いカーストの人間が入るお堂には、地元住民側の青年シャーマンはカーストが低いので絶対入ってはいけない。また、地主が低いカーストの住民達に対し破格の行為をなす動機が「金と権力」だというのが何とも賢い!

逆に言えば、「金と権力」の脈絡では観客にとっての善悪の判断は簡単である。他方、宗教的な概念に紐づいたもの…この場合は「低位カーストが宗教の在り様をしっかり守っている」ということ…を少しでも「違った風」に描くと、ヒンドゥーの観客の集合意識にとって「ノイズ」になるのであろう。

そして、そういう形でこの村の住民は基本的世界観を更新せずに生きていくのである!これが2020年代、グローバルサウス祭りに沸くインディアのはらわたである。監督のRishab Shettyは「Clever」だと評されていたのは、こういうところのバランスの仕方であろう。

本作続編は更に過去の物語を描くらしい。そうでしょう。だってもう、慣習法と近代法がDemigodのおかげでひとまず両立され、新しい時代が来た。②の近代法と慣習法の衝突には決着がついているから描く必要がないのである。儀式が観光化された今だからこそ、娯楽映画として振り返り楽しめるというものではあるまいか。

他方、インド独立前から、場合によっては現在もなお、住民は、地主や地元有力者の徳治政治に完全に依存するというリスクを負わされている。故に今なお物語の中で①のギャング化した地主や有力者一族を粉砕しないと気が済まないだろう(同作が巧みなのは、悪いのは地主一族から逸脱したたった一人と明記した点だ!)。それはインドにおける「官憲への信頼」の欠如を意味する。

また、映画の中ですらその仇にとどめを刺すのは人間を越えた存在である。これは様々な南インド的映画の神がかった主役ヒーローの表象と共鳴している。ではそのヒーローが地主を倒した後、子孫がギャング化しないと誰が言えるのだろうか。ヒーローの徳治政治に一縷の望みをかけるのは開き直りである。

未だ、公共空間における市民的信頼なんか「信じた者が負け」である。そういう意味で、アグニホトリ監督が思い描くヒンドゥー的価値観と市民的価値観の両立という理想はどう可能なのだろうか。そして、彼はどこまで本気なのだろう。

女児堕胎の残像:『Pindam』(2023年)

こちらはテルグ語のホラー映画で、実際の事件を元にしているという触れ込みである。

田舎で仕事を得た父親がローンで購入した破格の物件は事故物件だった…というもので、これも舞台が1990年代。何者かの気配に怯える一家の娘に何者かが取り憑いてしまう。三人目を身ごもった妻がけがをして病院に行っている間に父親の母が事故死。危機を察知した村一番の力を持つ祈祷師(イーシュワリ・ラオ。『SALAAR』『KGF』で凄まじい毒性の母性を炸裂させた女優)が、複数の宗教の力を借りて除霊に乗り出す!

私からすると、ホラーとしてはまあまあだったと思うが、サブストーリーの方が重要だ。本作には女児堕胎の問題が入っている。既に90年代のインドでは、女児堕胎を防ぐために胎児の出生前診断は禁止されていた。しかし同時にいかに男児が欲しいという欲望に憑依されていたか(いるか)が浮かび上がる。
女児堕胎に関するホラーとしてはマラーティー映画『Kanika』(2017年)もあり、2010年代後半にも相変わらずという感じもする)。

尚、映画では、その家でははるか昔に女児ばかり産んだ嫁が夫と姑に虐待され、女児たちは殺害されてしまっていた。それらの亡霊が家に取り憑いているという凄惨な経緯が明らかにされる。

亡霊になって復讐する以外にない。家の中で殺害されたのは、実は男児誕生のことばかりを言って嫁にストレスを与えた姑だけという辺り、何が問題であり続けているのか明らかだ。

韓国の70年代怪談・ホラー映画にも顕著なこの怨霊の復讐というツールによって、現実には全く救いが無かった女児堕胎の惨状(もしかすると今なお)を「あってはならない」ものとして断罪している。

『Kantara』要素のうちの①地主権力も②慣習法近代法の相克も、③カーストも直接的には介在していない本作のストーリーから見て、女児堕胎の問題はやや異なる問題領域に属しているのであろう。本作では二重どころかありとあらゆる宗教の力を使って祈祷師が一家を救い、怨霊の怒りを慰めようとするので④の要素ははっきりしない。

(補足:実は亡霊となったのは被害者たちだけではない。加害者までも亡霊となって現在に害を及ぼしている。そちらが本当の恐怖なのだ…というところを本作はうまく描いたと言えるかどうか微妙なところだ)

今なお集合意識で動く村人:『Virupakshaa』と『To Kill a Tiger』

やっぱり90年代初頭の田舎を舞台にした『Virupakshaa』がある。これもまた、70年代末に起きた住民暴動の因果を黒魔術を通じて描いている。脚本(と言っていいのか分からないのだが)はスクマール。村人たちによる集団暴力が怨霊を産み、その因果が皆に降りかかって来るところを、サイ・ダラム・テージが仲裁、平定する。田舎の気のいいあんちゃんとか、戦隊もののリーダーとかが似合う、もっさりしているが瞳のきれいな役者だ。むろん神がかった力を手にして。①地主はギャング化しておらず、②官憲の力は全く及んでいないので慣習法・近代法の衝突もなく、③カーストの意識もないが、④黒魔術は出て来るが、神的存在は直接救いに来なかったと記憶している。

ところでスクマール監督は80年代の田舎を舞台にした作品『Rangathalam』を監督している。

同作『Rangathalam』においては、『Kantara』に見られた要素のうち①ギャング化した地元有力者(地主)への復讐③カーストの意識が描かれるのだが、宗教という救済や緩衝材を欠いているが故に、明るい音楽と踊りと祝祭と対照的に、ひどくつらい物語になっている。他方スクマールは70年代を描いた『Pushpa』も監督した。彼独特の昔の懐かしみ方があるのだろうと思う。必ずしも昔の全否定のように見えないのだ。

ところで、ドキュメンタリー『To kill a tiger』を観た。これは2017年に起きた、13歳の少女に対するレイプ事件が起き、被害者の父親がレイプをやった者たちを訴えた経緯と顛末を描いている。警察にも訴え出て、犯人を告訴したことで村から被害者一家が孤立する。それを被害者の支援団体のメンバーが批判すると、「村の平和を乱すことをする方が悪い」「なぜ過ぎたことをガタガタ言ってるんだ」という脈絡で批判される(村議員の男性の言葉「起きたことは起きたこと」という言葉は不快だが、何だかしっくりも来た)。ここで注目すべきは、「だってみんなが何をするかわからない」「村の平和が…」「逮捕された男たちの親が・・・」というレトリックだ。村人がは被害者宅に押しかけて来るのだが、カメラの存在もあってなのだろうか、何となく流れで来たという感じなのだ。怒っているようでいて別に怒ってもいない。ただ思ったことを言っているだけ。つまるところ、「私はどう思うのでそんなの問題にするなよ」とは一人も言わない。結局憑依なので彼らの本音は結局よく分からんのだ。

これはインドだけの特徴ではない(木下恵介『楢山節考』もある)とは言え、もはや言い訳すらしない開き直りっぷりから、彼らが『Virupakshaa』の冒頭の村人暴動と同じ原理で動いている事がわかる。その殺伐とした状況を埋めたり、転倒させたりてガス抜きしてくれるのが宗教や祝祭なのではあるまいか。と同時に、ドキュメンタリーが描き出したそのインドの村落には宗教の救いがどこにも見えなかった。製作者の意図的な操作なのかもしれないが、それ故に、村人の喜びの側面が見えて来なかった。

同作は作品として優れているが、インドを知らない日本人は、外国人でも利用可能な「共感」においてのみ同作に接続するしかないのだろうが、それはインドを「理解した」態度なんだろうか。

インドとは異なる方向に発展を遂げた日本社会・文化は、インドの物差しから見てどう見えるだろうか。あまりに異質過ぎて理解しようとすることを放棄し、テクノロジーとか町の清潔さとかルールの遵守等の表面的なところにしか興味を持ちえないのではあるまいか。それは日本からインドを観るときも同じである。

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