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苦手な部分を突き刺してくる本 池亀彩著『インド残酷物語 世界一たくましい民』集英社新書、2021年

2021年に出版された池亀彩『インド残酷物語』を購入せずに、同年12月インドに移住したことを猛烈に後悔していたが、ようやく読めた。

南インドカルナータカ州でのフィールドワークを元に、著者の池亀彩氏が著した内容は、インドに住んで、まあまあ上の暮らしをしている自分の無知や、日々愚痴っていることが恥ずかしくなる内容だった。

インドと言えばカースト制度だと言われるほどに、カーストのことに触れていないインド論はほぼ無い。本書は、カーストには実に複雑に力関係が入り組んでおり、その地域の歴史的な展開を踏まえない限りは、その力学がその都度どう機能しているのかはっきりとしたことが言えない、ということを示した。

また、第三章「月曜日のグル法廷」は、最近ずっと疑問に思っていた「警察のいない南インド村落」の謎に一つの手がかりを与えてくれた。宗教指導者がそのまま地域の仲裁者、指導者、そして近代化の入口の役割も果たしているというところ。また、そういう人物が政治のかなり上の方との人脈を上手く使って、あまりに過酷な公共空間に一つの秩序とうっすらとした「善」をもたらしているように見える。或いは「善」かどうかはどうでもよいのかもしれない。ともかく「落ち着かせる」ことに成功しているということが分かって面白かった。

第四章「誰が水牛を殺すのか」はぞっとさせられた。章のはじめに引用されるマーランマ神話にありありと見える、残酷なまでの差別の固定化の仕組みが、「お祭り」というものの持つ意味合いを一段と暗くじめっとしたものに感じさせている。おそらく筆者自身が感じた恐怖や動揺や羞恥が本にも現れているのだと思う。それも本書の魅力である。

この章ではダリトと呼ばれる最も低い地位におかれて来たグループのメンバーが水牛を殺す宗教儀式を紹介するが、それが被差別集団をコミュニティの中で固定化する仕組みの象徴とされ、紛争の火種になっていることが分かる。

祝祭は、どんどん変化していく社会状況に浮かれる人々を「本来あるべき過去」に立ち返らせる意味もある。人権思想が世界に広まり出したのは、わずか100年ちょっとのこと。色んな国の映画を観てよく考えることなのだが、社会というものは、もともと一定数のメンバーにモンスターや悪魔、汚辱のレッテルを負わせて「犠牲になっていただく」ことでしか成り立たないのだろうか。人権思想はその「犠牲」を極限まで減らして来たと言っていい。カーストによる差別を否定した現代インドにおいて、人権思想はどのように根付き、或いは根付かないのだろうか。

昨年カルナータカ州で作られた『KANTARA』という映画がインド全土で大ヒットした。1990年頃を舞台として、地元の神とインド政府が契約を交わし、地主に搾取されていた村人たちに新しい秩序をもたらすという物語だった。それはつまり、地主の秩序とは異なる新時代の神話を語ったものであろう。村人たちは神の降臨に涙を流し、とてつもない強烈な喜びと満足の感情に満たされる。しかしそれは、一体どういう秩序をもたらすのだろうか。新しい神話には何が描かれ、次は誰が踏んづけられるのだろうか。

本書を読むと益々そういうことを考えさせられるのである。

「数千年の傷を癒すこと」という節の名前がとても重い。日本にも階層格差は存在し、その仕組みの中で我々は何世代も過ごしている。それが社会の表面から退潮したとしても、階層に紐づいた人間集団への観念は噂話の中で語られ我々の中で生き延びている。ネットの怪談にも明らかだ。相変わらず日本の「誰かに犠牲になってもらう」メカニズムは生きていて、相変わらずその中で生きているじゃないか、と怪談話は我々の耳に囁きかけて来るのである。本書は、そのようなことを怪談話や噂の中に留めておくことを良しとしない立場に立っていると見える。

同書は最後、ダイナミックに変化し続ける21世紀のインドで、何とかして上に上がって行こう、子どもにはいい生活をさせようと奮闘する人々の希望をとらえる。そこが、インド自体の希望とも言えるが、何だか人類全体に共通する希望のようにも読めて、読後感が非常によかった。

それが私にとってはどういう意味があるのか?というのは読後感とは全く別のことだ。

最近、アンチ・ボリウッドの大家となってしまった映画監督ヴィヴェク・アグニホトリの半自伝的な著書『Urban Naxals: The Making of Buddha in a traffic jam』を読んでいる。彼はアッパーミドル出身でカーストはブラフミンのインテリで、どうやら右派だ。彼は自分が学生時代に左翼活動にハマった体験を批判的に描き出しており、未見だが映画も作っている。

何だか…私が「パヨク・リハビリ」をやろうとしていたのと彼の歩んだ道は一脈通じている気がして来た。

彼はモディ支持を表明しているらしく、日本(のみならず欧米も)のインド映画ファンからは敬遠されるだろうし、「右派政権寄り」とされる彼の映画は日本には来ないだろう。『インド残酷物語』のような、インドを「足元から」分け入って観る立場から見れば、彼のTwitterなどでの主張は何もかもが上から目線に読めてしまう。

だが今、私は彼のことを何一つ批判できない。それは主張の内容によってではない。彼のバックグラウンドだ。

私は九州のアッパーミドルクラスの家で何不自由なく育ち、進学もさせてもらって親のすねかじり、色々あっても結局のうのうと生き延び、インドでも見事にミドルクラスに落ち着いている。おまけに男性だ。故に、インドに関して文章を書くと、格差や差別に関する問題については「上から」「強者の立場から」見るし、考えるし、発信する。

『インド残酷物語』が言うように、経済・政治の両領域が、インフォーマルセクター(とそれが生み出すシャドウ・エコノミー)なしにはきちんと再配分の機能を果たさないインドにおいては、恐らくこれからもずっと、図太く生き抜く底辺の人々に寄り添いがら見つめる目線が必要とされるだろう。

他方、アグニホトリ監督の著書では、インフォーマルセクターは「Middle man」として言及される存在に溶かされており、現状必要不可欠であるものの、遅れや非効率、そして不正の象徴として捉えられているように読める。そう考える私もまた、「インフォーマル・セクターのグレーゾーンの中では、少しグレーの濃度を上げることが成功への道の一つである(『インド残酷物語』227ページ)」という風に理解はできても、その空間のあり様を理解もできなければ、まして「うまいことやる」ことは不可能だ。だからこそ、インフォーマルセクターの人々がフォーマルセクターに取り込まれるべきだ、そうなって初めて公共空間や、身内の外の人との間にマナーが生まれるだろう、と予感しているのだ。そんな私はアグニホトリ監督の立場に近い。

要するに、上から目線でいるし、それはもう否定しても仕方がない。

『インド残酷物語』と『Urban Naxals』は、同じ国を全く異なる視点から眼差し、それぞれの希望を描いている本だ。

何度も何度も同じところに戻って来るが、やっぱり私は私らしく、やや怠惰なミドルクラスの夢であるホラー映画というプリズムを使って、インドや日本を含めた世界を見て書いていきたい。

いつか私は、「インドのインフォーマルセクターを知らないくせにインドで暮らしている」という罪悪感から解放されるときは来るんだろうか。

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