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竹美映画評92 戦争に取り囲まれた平和 『少年期』(1951年、日本)

久しぶりの日本映画、木下恵介の作品『少年期』を観た。

あらすじ

昭和19年、東京に住む少年、一郎(石浜朗)の一家は諏訪に疎開することになったが、東京の学校を離れたくない一郎は一人東京に残る。寂しさを抱えながら、空襲警報のたびに諏訪に行く一郎。やがて出征した教師(三國連太郎!どハンサム)の訃報を受け、一郎も一家のいる諏訪の学校に転校。「疎開者」「弱い」「父親(笠智衆)は戦争反対者か」等等の苦い体験をするが、いつも母(田村秋子)が傍にいて励ましてくれた。

ぐるり戦争に取り囲まれた日本で、怯えながらも、「いつ死んでもおかしくないんだから、やりたいことをやっておくのだ」、と己の信念に忠実であろうと暮らす一家の姿を描いている。

戦後からまなざすわずか数年前の記憶

全ては戦後わずか6年後に作られているお話。観ている方は「戦争はじきに終わる」「この一家は報われる」ということを知っている。実際にはこの一家のようにはなれず、よそ者(敢えてこう書くが)に悪口を言う、特高に目を付けられた家の子供をいじめる、親孝行な子供に飯を食わせる、虐められている生徒に何となく寄り添う教師、戦争に負けた途端生きる意味を失う人、疎開列車に殺到する人々…等、背景や周囲の人々こそが、我々日本人の姿であったろう。

防空壕を作るシーンで、諏訪の人々が「疎開もの」の陰口を聞こえるように言っているシーンがある。疎開して来た都会ものがそこで言い返すのだ。そこでは疎開して来た側にいかにも理があるように聞こえるのだが、「そういうこと言うのはもう止めましょう!」と、もっと徳の高い人が言い合いを止める。きっと日本各地でそういうことがあったのではあるまいか。

「村ホラー」として、田舎の狂気を都会の目で見る映画はいつも人気があるのだが、本作のように明るいところで「みんなのはらわた」を吐き出せば気が済むかもしれない。それが「村ホラー」解体の道筋かもしれない…戦後の明るい木下の魔法の光の中では奇跡のようにそう思える。

しかしねえ、この一家のように高潔に、美しく生きられるわけがないわよ。戦後GHQの文化政策の中で、ちょっとフェアではないことを本作は問うているし、これこそが戦後日本の思想教化だったとも言える。木下映画のこうした表象は、苦しい思いをして疎開者にムカついても我慢して我慢して生きた人達の本音を抑圧しているようにも見えるのだ。

でもねえ、木下は甘くない。実は何の問題も起きず、つまりは「平和」に家族の問題だけを見つめ、戦争というものをあまり体感せず、きちんと考える必要もなかった一郎。彼は作中繰り返し、「戦争に行きたい」と繰り返し、兵隊さんたちを涙で見送ったりしている(美しい顔に涙!性癖に刺さる人いると思う)。一郎は一種の平和ボケなのだ。日本人が戦争の中で傷つき、死に絶え、遺された家族たちもぼろぼろになっていることを知らぬまま、少年は戦後を迎えてしまう。そこを木下は見逃さない。

父親が割腹自殺してしまい泣き崩れる少年の横で、一郎の父は、何も失わなかったお前は今後どうやって生きていくのかと静かに問う。

今、他国の戦争の様子をツイッターXで観てあーだこーだ言うたり、TBSの須賀川記者にクソリプしてるあなたや、こんなの書いてる私のことよー

もし今、あなたが、戦争にぐるり取り囲まれた世界の中にぽつねんと存在している平和な日本というものに何か疑念を持っているとしたら、結局は、「いつ死ぬとも分からないからこそ、今やりたいことをやっておこう」という父親の哲学や、腹括って、虚構だったとしても自分の人生を自分で決める母親の生き様に尽きるのだろう。そして、それはもちろん、他人を害するようなものであってはいけない。

”深い友情やプラトニックな関係が描かれるストーリー”

木下映画の宝、少年たちの姿は、さすがタイトルに少年と入るだけあってきらっきらしている。主役一郎を演じた石浜朗は、本作が映画デビューらしいが、アップのシーンでは益々顔が美しく輝き、長い脚を惜しげもなく晒している(後年超新星フラッシュマンに出ていたらしいが記憶していない…)。東京の学校の友達も、また、諏訪の学校で何となくよくしてくれる友達との関係、また執拗に彼をいじめる少年が最後に見せる驚きの行動などがゲイ心、または皆の心の乾いている腐葉土に季節外れのモンスーンをもたらすであろう…。

私はゲイなもんだから、おまけに、ノンケに恋焦がれた経験(1回だけあったが)がさほど自分のコアに無いので、そういうのを観てもどうとも思わないのだが、本作には、女の子ー男の子の初恋要素が一切ない。そもそも恋愛に該当するものが出て来ない!あるとすれば、母→父へのそこはかとない性愛。

これが戦時下の日本の空気でもあったのだろう。

ところで、昨今「意味もなく男と女がくっつく映画がうざい」というようなことを思っているZ世代諸君またはそのアライの皆は、是非木下恵介の少年が主人公の映画を見るべきだ。「深い友情やプラトニックな関係が描かれるストーリー」が欲しければ、本作、『夕やけ雲』、未見の『惜春鳥』(これにも石浜朗が出ているという)はどうだろう。

女性ー女性なら、『女の園』『カルメン故郷に帰る』『カルメン純情す』をご覧あれ。

Z世代マーケッターは、なぜ木下恵介の映画を推さないのだろう。性愛とも何とも言えないほのかな関係性が美しくかわいらしく描かれているという意味でなら、原節子との縁談そっちのけで佐田啓二と佐野周二が濃厚接触してる『お嬢さん乾杯!』とか、お勧めしたらいいのに。

日本の風土がはっきり反映された上での自由主義が戦後の光の中で高らかに宣言された木下の映画を観てから、昨今の「学習」を迫るタイプの作品『ハートストッパー』を観た方が、ずっと深く、最近の作品を楽しめると思うが。同時代のイギリスやアメリカで、こうした関係性が何と結びつけて描かれたか、ということを考えてみれば猶更。

マーケッターとしては、視聴者に「深く楽しま」ないで欲しいのかもしれないね。

「お父様ってね、そうざらにいない方だっていうこと」

本作、「母親と息子」の関係に関してはどうだろう。母親ばっかり我慢させられ、子供の世話だけでなく、信念のために皆に苦労させる夫のために(本人は教育を受けた人なのに)、家事労働・肉体労働に従事してて文句も言えない状態に置かれている…と見えるし恐らくそうだったのであろう。

が、木下映画が面白いのは、そういう「男から見た母親の美」というものだけで母親像を語らないところ。今回それを相対化させるのは息子の疑念だ。一郎は、お母さんが大好きであるからこそ、そのお母さんを苦労させている父親のことが理解できない。その不満と困惑を母親に漏らすのだが、母は鼻で笑って

お父様ってね、そうざらにいない方だっていうこと

と熱愛宣言。腹の底のどろっとしたものを一瞬だけ見せてぱっと隠す「女」なの!!!父親のあり方全部に納得はしていなかろうが、戦時下という状況においてこそ光る何かが性愛にもつながっていそう…凄いわよ!!!この夫婦は。そんな人たち、いません。

そういう風に腹括って、選択肢がたくさんあるわけではない己の生を自分にとって意味のあるものにしていく…それは虚構だ。しつこいが時代がそうさせたんだとも言えるし、GHQがこう書かせたってこともあるかもしれないよ。自由主義を教えたはずのこの時代の文化政策があっても尚、この家族の中に内在している「家」の論理(みんなが嫌いなやつよ)を肯定し、疑問も持たずに延長させいるじゃないか…と私の中に棲んでいる紅衛兵が私に耳打ちする。

でも、忘れないで。それは見る側のリアリティであって、この「母親」リアリティではない。その人のリアリティはその人にしか分からない。この母の生き様を私やあなたが真似しても意味がない。自分のリアリティを探さなきゃ。自分のリアリティをしっかり見つめながら、それを大事にし、常に変化する可能性を開いておく。

害があるとしたら、この母のしたことや父の様子をそのままなぞれば「この映画の中で描かれたリアリティを自分もあなたも手にできる」という虚構である。そっちの方が簡単である。そして、その虚構を憎むのはその次に簡単である。虚構なんだから、自分で意味付けなきゃならない。映画ができることはそこまでのはずと私は思っている。

なかなか難しいことも考えさせてくれる映画。本来はね。

木下映画、途中はちょっと眠くなってくるんだけど、やっぱりいいなと思った。いい栄養分になる。

戦争の中にあって戦争のリアリティを欠き、平和の中にある一郎=我々はどう生きるか。参ったねえ。

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