[note35]私たち(社会)は職業をどう捉えるべきなのか?
はじめに
静岡県牧之原市の認定こども園で3歳の幼児がバスに置き去りとなり、熱中症・熱射病で亡くなるという痛ましい事故が起こった。各メディアが報じているように事故というよりはヒューマンエラーが重なり、単純に事故という言葉を使うことが適切であるか微妙なところだと感じる。
ただ、今回は、事件そのものではなく、「保育園」という場所について自分も子どもを預ける立場として普段感じていることを書いてみようと思う。多少なりとも客観性に欠ける面があるし、多様な職業について言及出来ている訳ではないが、一部事実(FACT)を含む、率直な意見(OPINION)として読んでいただければと思う。また、現在の保育園や保育士をめぐる様々な課題をもって、今回の事件自体についてフォローするつもりは一切ない。
9月17日の朝日新聞には以下のような記事がある(一部抜粋)
保育業界は慢性的な人手不足
保育の現場では、慢性的な人手不足が指摘されている。厚生労働省によると、保育士の採用がピークを迎える今年1月時点の県内の保育士の有効求人倍率は4・40倍、全国平均では2・92倍。求人数は増える傾向にあるが、求職者数が減っている。さらに地方では、よりよい待遇を求めて都市部に人材が移動している現実もある。
「職員全員が疲弊」
福島県内のある認可保育園では、「東京で働いてみたい」「生活が大変で奨学金を返せない」などの理由で毎年、複数の保育士が退職していく。40代の主任保育士は「以前は求人を出すと毎春応募が来たが都市部の待機児童問題がクローズアップされた6年ほど前から、ぱったり来なくなった」という。その分を穴埋めするため、超過勤務や土曜出勤が増える。自身も体を壊し、数カ月休んだ。「職員全員が疲弊していて常にギリギリの状態。とても持続可能ではないと思う」とこぼす。保育士が1人あたり見てよい幼児の数を定めた国の配置基準は戦後まもなくからほぼ変わっておらず、先進国平均の約2倍で最悪の水準と指摘されてきた。「保育現場でのミスは命に直結する。国や自治体は根本的な待遇改善や配置基準の向上に予算を割くべきだ」
社会が生きること・働くことを捉えなおす時
「聖職」という言葉がある。本来は神に仕える新譜や牧師あるいは僧侶などを指す言葉であるが、しばしば教育に従事する職業にも用いられる。保育士は厚労省、教師は文科省管轄であり、それぞれ保育と教育に従事するが両者ともに社会からの見方は「聖職」のニュアンスが含まれると感じる。
即ち、子ども達、園児達のために尽くすことが求められているということだ。もちろん、教師や保育士は使命感を持って子どもたちに向き合っているであろうし、そこに職業としての遣り甲斐や喜びを感じている面は多々あるだろう。現実にそれ自体は自分自身も感じている。しかし、彼らは特別な人間ではない。社会を構成する多くの何ら変わらない存在である(多様な職業があり、それぞれに苦難や問題が存在していることは承知の上で、今回は保育士という職業に焦点を当てていることはあらかじめお断りしておきたい)
厚労省の賃金構造基本統計調査(2016年)によると保育士の給与は全国平均で24万4500円で年収換算では360万円程度になる。年収は2013年以降上昇傾向にあり、3年間で17万円増加している。しかし、全職種平均と比較すれば年収で160万円、月収で12万円ほどの差があることが分かる。幼稚園教諭、福祉施設介護職員、ホームヘルパーなどにも同様の傾向がみられる。仕事において給与は全てだとは思わない。しかし、仕事に見合う給与が支給されることもまた当然のことだと考える。子ども達の命を預かり(今回の事件では残念ながら、最も大切なものが守られていない訳だが…)、私達が仕事に従事できる環境を担保してくれる保育園や保育士に対する社会的な責任の重さと人員不足や待遇を含めた労務環境にはあまりにギャップがあるのではないだろうか。自分が子どもを保育園に送り迎えする一時の時間の中でさえも、保育士という仕事のプロフェッショナルを感じることが多々あり、同じ子どもたちを受け入れる立場としての責任の重さも感じている。様々な園があるのも事実であるが、「この場所があるから、自分は仕事に行ける」と日々、感じている。
「お金じゃないだろう!そこにはお金には代えがたい遣り甲斐があるはずだ」というのは間違っていない。それを本人が感じたり、述べているならば…。しかし、他者が評論家的に、そうしたことを論じた時、保育士を含め、様々な職業の人々は、「そうあらねばならない」と感じ、追いつめられることになる。命を預かる責任がある。そして、行政には命を預かる環境を整備する責務がある。さらに私達は、彼らのプロフェッショナリズムを理解する必要があるのではないのか。弁護士は法律、教師は教育、医師は医療、保育士は保育のプロフェッショナルであろうと努力する。もちろん、そのほかの職業も例外ではない。それを社会全体が理解しなければ、真摯に業務と向き合う彼らは潰れてしまうだろう。そうなれば最終的に困難に直面するのは自分自身であることを理解しておく必要がある。
最後に・・・
コロナウイルスの影響で医師や看護師の過重労働が連日報道されている。私達は彼らに頼り、彼らに救われ、生きている部分が大きい。改めて、生きること、働くこととは何か?「生きるために働くのか?」「働くために生きるのか?」このことについて社会が考える時期に来ていると感じている。今回は保育士の待遇について考えてみたが、その他にも正当な評価を受けることなく、使命感で日々の業務に懸命に向き合っている人々がいることを忘れるべきではない。社会はあらゆる職業人によって成り立っているわけだから。