あの頃の僕に届く本はつくれているか?
僕は岐阜の田舎で生まれ育った。
名古屋から1時間ほどの、特にこれといった特徴もない町だ。田舎にはエンターテイメントが少ない。カラオケ、ゲーセン、パチンコ屋くらいか……。
そんななか、僕にとって最高のエンターテイメントの聖地が「本屋」だった。田んぼの向こうにデカデカと光る「本」の看板を見るとハッピーな気分になった。
田舎の本屋なので本の数は多くない。流れてくる新刊も限られていた。それでも行くたびに、なにかしら新しい本に出会ってうれしかった。
本屋には刺激があり、発見があった。小中学生の頃は、夜の9時ごろどうしても本屋さんに行きたくなって親に車を出してもらったことは何度もある。ちゃんと勉強になりそうな本なら親は買ってくれた。クラシックが静かに流れる本屋で本を選ぶ時間が至福の時間だった。
中学3年生くらいになると電車に乗って名古屋に遊びに行くようになった。行き先は栄の丸善、そして名駅の地下に広がる三省堂だ。
最高だった。信じられないほどの本の山、山、山、どこまで続くのかわからないほどの本棚の迷路に圧倒された。「こんな本もあるのか!」「なんだこの面白そうな本!」とひとり感動しまくっていた。
そして、いつかこの本の「源泉」である東京というところに行きたい。出版社というところに行くんだ、と胸を熱くしていた。
ときは過ぎて2018年――。
ありがたいことにその「本をつくる側」にいることができる。「源泉」に辿りついたわけだ。編集者になって10年くらいか……。細かいことを言えば、いろいろ不満もあるし、業界の未来もどうなるんだよって感じだ。だけど、それはさておき「いい本、ちゃんとつくれてるか?」といま一度自分に問うてみたい。
あの頃、巨大な本屋で胸踊らせていた自分に届く本はつくれているか。あの頃の自分のような青年に届く本はつくれているか、と。
あの頃の僕に届く本をつくろう。あの頃の僕を驚かせよう。
そう思う。
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