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「差別化」という言葉を聞いたら疑え

 本の企画会議や打ち合わせで「類書は何ですか?」と聞かれることがある。

 類書。ようは「この企画に似ている本はあるのか?」「前例はあるのか?」ということだ。おそらく、企画の良し悪しやおもしろさが自分の感覚ではわからない人が「担保として」聞いているのだろう。似たような本が売れているなら安心だし、そうでないならリスクがある、ということなのだろうか。

 ぼくの知っているヒットメーカーの編集者は類書を一切見ない。似たような本を買ってきて研究することも一切ない。それよりも目の前の原稿をいかに磨き上げて最高の一冊にするか。それしか考えていない。

 ぼくにはそれが正解のように思える。もちろん、実用書などは他の似たような本と比べながらつくることもあるかもしれないが、そういう例外を除いて「これからつくる本」を「過去に出た本」と比べることに大きな意味があるようには思えない。

「類書」も「差別化」もつくり手側の論理

 もうひとつ、企画会議や打ち合わせでよく聞く言葉が「差別化」である。「類書」と違って、「これまでにないものをつくろう」という意味で出てくる発想だと思うが、これも危険な言葉だと思っている。

 例えば、これから新しいシャツをつくるとする。あなたは「白くてシンプルでカッコいいシャツをつくりたい」という企画書を会議に提出する。しかし会議ではこんなことを言われる。

おじさん「んー、それ差別化できてるのかねえ?」
おじさん「同じようなものたくさんあるでしょ。差別化しないと、差別化」

 そこであなたは仕方なく「こういう柄にしてはどうか?」「こういう装飾をつけてはどうか?」「めちゃくちゃ安くできないか?」「逆に値段をぐんと上げてはどうか?」と「差別化」するために考え始める。

 その結果、どうなるか。誰も欲しがらない(つくり手すら買わない!)ようなものができあがるのである。

 消費者が欲しいのは「手頃な値段で、肌触りが良くて、丈夫で、洗濯がしやすくて、カッコいい、シンプルな白いシャツ」なのだ。別に変な装飾を求めているわけではない。奇抜な柄のシャツが欲しかったわけではない。

 でも「差別化せよ」という号令がかかると、消費者が到底欲しいとは思わないようなよくわからないものが次々に生まれてしまうのだ。

ほんとうにほしい「ど真ん中」のものをつくろう

 くまもんの生みの親で知られるクリエイティブディレクターの水野学さんは、この現象を「差別化によるドーナツ化現象」と言っている。つくり手が差別化を繰り返した結果、ほんとうに欲しいど真ん中のものがポッカリとなくなっている、ということだ。(ちなみに水野さんはその思いから「THE」という「ど真ん中」を埋めるブランドを展開している。)

 本の世界でも似たようなことは山ほどある。

「『会計入門』なんて、ごまんとあるから『まんがでわかる会計』にしようかな? いや、それも多いから人気のキャラクターとコラボさせてエッジを立てようかな? ミステリーはどうか? 萌え系はどうか?」などとあらゆる「差別化」を行なう。

 でも、読者が欲しいのは「差別化された会計の本」ではない。ただ会計のことを知りたいだけ。わかりやすく会計が学びたいだけだ。よって、出版社がつくるべきは「本当にいちばんわかりやすい会計入門」なのだ。

 そこをスルーして安易に「差別化」した結果、点数は増えるわりに売り上げが伸びないという事態に陥ってしまう。

 考えてみれば、「差別化」というのはお客さんからしてみればどうでもいいことだ。「競合他社とどう違うものをつくるか」「類似商品といかに違うものにするか(もしくは寄せるか)」などの論理は、消費者やユーザーにはまったく関係のないこと。すべてつくり手側の論理なのである。

「類書」や「差別化」などのワードに惑わされずに、ほんとうにいいと思う本を、読みたい本を、全力でつくる。それが大切だと思うし、そういう編集者でありたい。


……って、なんかすいません、偉そうで。いいものつくります。

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