実存するとはどういうことか(850)
私たちは常に変化しているものに対面しています。若いと思っていてもすぐに老いていくように、恒常的に変化しないものなど無いのです。これが、仏教の考え方です。
有に対して、実は恒常的なものは無い(常なるものは無い、または実体は無いという無常)ということを「消極的な無」と言います。また、有と無の二極対立を否定するのを「積極的な無」と言います。
ただし、無常であっても、「今、ここ、自己」は瞬間的に目の前に実存します。これが、「東洋的実存」なのです。
[注] サルトルなどの西洋の実存主義は、
人間は現実に共存し実存するという考え方。
東洋的実存は、過去にあったものはすでに変わっており、未来はあてにできないとします。すなわち、過去にとらわれることなく(ただし過去の経験は活かして)、未来を考えず(というより、わずらわされず)、ただ今を生きることが大事だとしているのです。
たとえば未来に関して言えば、茶道で言う「一期一会」というのは、未来には同じ状況は起こり得ないのでこの一瞬を大切にする、ということを意味しています。
また、未来を夢見て会社での昇進だけを期待して働きすぎることで家庭を顧みないのでは、家族がバラバラになってしまいます。そもそも家族のために働いているのですから、本末転倒になってしまうのです。
では、将来の夢を持つ(未来の目標を持つ)のは良くないかと言うと、そうではないのです。目標のために生きるのではなく、今をより良く生きるために目標があるのです。目標があれば、今をどのように生きるかが分かるではありませんか。
ところで、東洋的実存は「無」をベースに考えられたものです。
私たち自身(自己)に当てはめてみると、私たち人間には「一切何ものにも依らない自己」が生まれた時から備わっています。これを本性とか仏性と言います。いわば、純粋で清浄なるものです。
そして、生後に色々な知識(不完全なもの、誤ったものを含む)を得ることで自我が形成されていきます。本性・仏性の周りにくっついていくのです。
本当は実体が無いけれども(実在しないということではないが、それを「無」と呼ぶ)、そこに周りから何らかの働き(これを「縁」と言う)がかかることで、次の状態に移っていくのです。(このことを「因縁果」と言います。)
時間的な流れとしては、一切何ものにも依らない(「無」に依る)ことがスタート(因)になります。そして、知識を得ることが縁であり、結果としての自我が果ということになるわけです。
ここで、一つ補足しておきます。
私たちは、自我によってものごとを判断する(分別する)ようになります。そうであれば、もしも不完全または誤った知識によって形成された自我でものごとを判断(分別)すると、誤った結果になることがあるのです。
逆に言うと、自我ではなく、本来有している純粋で清浄なる本性・仏性に従えば、正しい判断ができることになります。(正確に言うと、本性・仏性に従うということは、自我による判断・分別ではなく、無分別だということです。)
よくよく考えてみると、何ものにも依らない無は、生来的に有しているものです。不完全とか誤った知識から成る自我ではなく、無である本性・仏性に従っていけば、誤った判断にはならないということです。だから、無である本性・仏性に気づくことは素晴らしいことなのです(そのことを悟りと呼びます)。
そのような無である本性・仏性の働きは、純粋無垢で正しい智慧として発露することになるのです。
要するに、「無=本性・仏性に気づくことが悟りであり、本性・仏性に従った働きが智慧」と言うことなのです。それが、東洋的実存なのです。
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