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給料は労働の対価か?

おはようございます!
 
立川談慶さんの「落語と資本論」を読み、
久しぶりに給料のことを考えています。
 
給料は労働の対価という考え方は、
今は常識となっていますが、
私はそれでは幸せな気分にはなれない
と考えています。
 

 
マルクスが言うには、
付加価値を生むのは労働で、
その付加価値未満しか
給料は払われていなく、
残りは資本家が搾取しているといいます。
余剰価値と名づけています。
 
その後の経済学では、ざっくりいうと、
それは資本家が商売を考えて実行し、
リスクを取った適正な利益であり
搾取ではないとします。
 
今の経営コンサルタントならば、
このあたりが常識でしょう。
 

 
でも、そうでない考え方もあります。
 
人間はそもそも、
必要以上のものを作ってしまうクセがある。
という考え方です。
 
内田樹先生は、
蜘蛛が今日は糸の出が良いから
他の蜘蛛の分まで巣を張ってあげようとか、
ビーバーが今日は歯の調子が良いから、
他のビーバーの家まで作ってあげよう
としている姿は想像しにくいと言います。
 
しかし人間はそれをしてしまう。
何故なら、
余分なものを人にあげると
気分がよくなるから。
 
「ありがとう」「助かりました」と言われると、
とても良いことをしたような気分に
なるからです。
 

 
マルクスの余剰価値を、
資本家が搾取したと考えたり、
資本家が努力で得た利益だと考えるより、
人間はそれを気分よくやってしまうのだ
と考えるほうが私は好きです。
 
学校の先生から教わったことを
授業料払っているから±チャラだ
とは考えにくいものです。
お金には代えられません。
 
教えてもらった分は、
次の人に手渡していくことでしか
自分の帳尻はあわせられません。
 
保育・教育、医療・介護は
その色合いが強い。
 
それだけでなく、通常の仕事も、
自分の付加価値でできた
という側面もありますが、
お客様との双方向のやり取りがあって
生まれるものです。
 
お客様に育てられたという感覚や、
先輩に教えてもらったという感覚は
誰しもあるものです。
 
それを、給料は労働の対価
と割り切ることは私にはできません。
 
周りの人から渡された部分が多分にあり、
それは次の人に渡していかなければ
自分の帳尻が合わないと私は考えます。
 
そう考えた方が、幸せな気持ちになります。
 
しかし、こうした考えを、
普段の仕事でいうと
奇異な目で見られてしまうので、
あまり声に出すことはありません。
 
でも、時々言いたくなることがあります。
 
今日もよろしくお願いします。
 
安島

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