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平凡な僕がせっかく入社した大手企業を次々と辞めた理由

こんにちは。

今回の記事は、
・自分は心の底からやりたいことがなくて辛いと感じている人
・就職活動で出来るだけ自分のやりたい仕事、行きたい会社に入りたいと思っている人
・今の会社辞めたいけど、自分には何の取り柄もないし、資格も技術もないから辞められないと思っている人
・就職活動をしているけど、なんで働かないといけないのかわからず絶望的な気分な人
・就職活動をしているが、何をPRしたらいいのかわからない人

そんな人たちの参考になればと思って書きたいと思います。

記事の最後あたりには有料にはなってしまいますが、就職活動でやるべき方向性、PR方法を具体的にしてアップしています。恥ずかしながら過去の自己PR実際の文章も載せていますので、ぜひ参考にしてみてください。
このやり方で転職活動も一度も不採用にならずにいけたので、多くの方に使える内容になっていると思います。もちろん、新卒での就職活動の方にも使える内容になっていると思います。

僕は、大学が教育学部(心理学専攻)→大学院が工学部(建築設計専攻)、就職先は、旭化成(建築の設計)→シャープ(株)(商品企画部)→小林製薬(株)(薬の新製品マーケティング)→近畿大学(建築系職員&事業企画系事務員の部署掛け持ち)→独立
とちょっと変わった経歴を持っています。
現在は、設計事務所の経営、カフェの経営、マーケティングコンサル、大学でのマーケティング講師、建築の専門学校での講師など、自分が「これは楽しそうなので、やってもいいな」と思うものだけをやっています。

これをみてもらうと、異業種に転職ってできるの?
と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも僕的には特別なことはしていないと思っています。

ぼんやりですが、なりたい自分に最終的になるために、大学院に行くところくらいからはある程度戦略的に行動してきたような気がしますし、ラッキーだった場面もあると思います。

新卒時の就職活動や転職活動の経験から、受かりやすい書類の書き方や面接の攻め方のポイント等も書いてみたいと思います。きっとこの方針を自分の中で持っていれば、迷いなく書類を書けたり、面接で喋ることができると思います。

ちょっと長くなるかもしれませんが、興味のある方はぜひ読んでみて下さい。

構成としては、

①僕がいかに適当に進路を選んできたのか、社会不適合者だったのか
②なんで転職しようと思ったのか
③転職するときの書類の書き方のコツ、面接でのコツについて

こんな内容で書いていきます。

やりたいことなんてずっとなかった

幼稚園の頃からずっと引っ込み思案で、自分から友達に「遊ぼ」とも言えないような子供でした。体は学年で一番小さいし、勉強ができるわけでもないし、運動が得意でもなかったので、自分にとにかく自信がなかったのです。

それでも性格だけは明るかったので、誘ってくれる友達がいたのが救いでした。

月日は流れ、高校生になり、入部したサッカー部も初日に辞めてしまい、学校が終わると直ぐに家に帰り、ひたすらプレステをやっていました。当時はバイオハザードにハマり、ひたすら一人でゲーム三昧。

油断をしている間に、気づけば高校三年生。一応、進学校ぽい学校だったので、クラスメートから「阪大にいきたい」「関関同立へいきたい」といった声が毎日のように聞こえてきました。
僕は親が大学へ行けという家庭でもなかったので、大学に【どうしても行きたい】という気持ちではなかったのです。
そして、何よりやりたいことがなかった。夢がなかった。ゲームして毎日ダラダラ出来たらええなあくらいは思っていたかもしれません。

だからこそ、人生に、将来に焦っていた気がします。周りがキラキラしているように見えると自分ってしょぼいなあとネガティブキャンペーンが始まっていました。

当然、やりたいことがないのに大学受験の勉強をしようにもやる気はゼロ。一応、受験勉強しているようなファイティングポーズは決めているつもりだったのですが、いかんせん意欲がない。そうなると、皆さんも経験があると思うのですが、眠くて眠くて勉強開始10分で寝てしまうのです。

そして気づけば浪人?していました。浪人というか、ニートというか、とりあえず高校卒業して何もしていない日々。大学に行っている友達から話を聞くたびに「なんか楽しそうやな」とただただ羨ましいと感じるだけでした。

そこでとりあえず、無理矢理に自分を「夢がある男」と思い込もうと、色々な大学のパンフレットを取り寄せて、まるで【やりたいことがある】と思い込もうとしていた気がします。

ある友達には、「将来 農作物の研究をしたい」といってみたり、
またある友達には、「銀行員になってお金を稼ぎたい」といってみたり、
最終的には仲の良い友達の夢をパクッて「建築家になりたい」といったこともありました。

で、結果、教育学部に入学。
理由は、小学校時代だけは楽しかったこと、そして何より女子が多くて楽しそう、この2点で決めたのです。
良くも悪くも感情の赴くままに決めてしまうような性格なんだと思います。

無事に入学した僕は、日本の大学生の典型となり、勉強を頑張るのではなく、バイトにいそしみ、バイト代で買ったベースを弾きならすべくライブハウスに入り浸る生活となりました。ちなみに、授業で習ったものは一切覚えていません。

そして月日が経つのは早いもので、気づけば大学3回生になっていました。このころになると、教員を目指す同級生たちは教育実習や介護実習といった教員免許取得に必要な実習に出かけていきます。僕は教員免許を取っても良いし、取らなくても良いという中途半端な学科だったので、この時は「取らない」という選択をしました。(のちに、不足単位を通信教育で取って結局免許をとることにしましたが)

そうなると、企業への就職が一般的なルートになります。
しかし、どう考えても「まだ就職したくない」と心が叫んでいました。このまま就職したら暗闇に落ちてしまいそうな気がしたのです。

迷いながら夏休みを迎えたある日、高校のときに仲の良かった親友が久々に大阪に帰ってきました。彼はとある大学の建築学科へ進学して「建築家になる!」と僕に夢を語っていた人物です。
お茶をしていると「おれ、建築家なるの辞めるわ。色々な本を読んだりしてたら経営の勉強したいねん。タリーズの経営スタイルが気になるからアメリカに留学することにしたわ」とカッコいいことを言うんです。
彼は常に僕の一歩先を行き、高校時代に大いなる影響を与えてくれた、同級生なんだけどイケてる兄のようなそんな存在だったのです。

「おまえ、おれの建築の道具いる?」

ふと言われたその一言に「おう、ちょうど建築家になりたいなって思い始めててん」と今となっては嘘だった気もすることを彼に伝え、道具や本を貰うことになりました。

次の日から僕はそれを眺めながら「とりあえず時間稼ぎに建築学科でもいくか」と心に誓ったのでした。

何年たっても適当というか、将来のことを真剣に考えるのがめんどくさくて先送りしたというか、そんな程度で工学部建築学科の大学院へ進学することを決めたのでした。

そこから人生初めてと言っていいくらい、独学で建築の勉強を始め、千葉大学大学院の建築学科へと無事に進学することができたのでした。

入学後は、教育学部でワードとエクセルしか触ったことなかった僕は大変な目にあいました。
みんなが「イラレ(illsutorator)で作る」「フォトショ(photoshop)で切り抜いといて」「CADで書いとくわ」「CGも作らないとだめだわ」といったような、当時の僕には理解不能な会話をするので、いきなり意気消沈。
場違いなところに来たなと逃げ出したくなりました。
しかし、優しくて優秀なゼミの同期たちが毎日優しく教えてくれたおかげで、なんとなくみんなと同じレベルで使えるようになったのです。

「おれもデザイナーやな!」と調子に乗り始めたころ、またもや就職活動の時期があっけなくやってきたのです。

建築デザインの勉強をし始めていたものの、先ほど書いたような理由で入っただけなので、本気でやりたいか?と言われたらそこまででもなく、
でも、これ以上逃げようがなかったので諦めて就職することを決意したのです。

そこで「ラクそう」「給料良さそう」「関西で働けそう」のこの3点を死守すべく、一応、建築系を中心に就職活動を実施しました。
(公務員が楽そうでええなあという揺らぐ気持ちも持っていたような気がします)
結果、5つくらい内定は貰えたのですが、その中でも「大阪」で働けそうな旭化成へ入社することを決意したのです。(どこに就職するのも嫌だったんですが、、、、)

配属決定した初日に辞表を出した1社目

2005年4月、24歳の春に人生初の社会人生活へと突入した僕はここから毎日げろ吐きそうなくらい絶望的な気分でした。

毎日スーツをきて、毎日同じ時間に同じ場所に行く。
こんなことのためにしょうもない勉強をしてきたのかと思うといたたまれなかったのです。
大学時代は毎日仲の良い友達たち(今も仲良しで、最高の仲間たちです)としょうもないことで笑って天国のような毎日。こんな日が一生続けばいいのにと思っていたとこからの地獄。
この時は【独立する】という野望や希望がなかったので、【一生サラリーマン地獄で人生終わった】としか思えなかったんです。
きっと僕だけではないと思うのです、これって。

加えて、人生一回目の試練がいきなりやってきました。

1回目の研修(約2週間くらいだった気がします)が終わり、配属エリアの発表があったのですが、耳を疑いました。

「お前は中部エリア」

「え、おれ大阪ちゃうの?????」頭が真っ白になりました。
大阪に配属される可能性が高いと思って他の4つを蹴って旭化成にしたのに、まさかの「中部エリア」の配属。

まじで友達すらおらんし。

ここで決めたのです!

「今日辞めよう!辞めて大阪帰って教員免許取りなおして教師なろ」

そして恐る恐る、配属発表が終わった後に人事担当者のもとへ。

【めっちゃ言いにくいわ・・・・】と思いながらも
「すみません、ちょっと色々あって今日で辞めます」と思い切って言ったのです。

人事担当者「え、、、、、、何を言うてるの?」

そらそうですよ。そんなやつ、めったにいないですよね。みんな笑顔で「東京やとおもったのに」とか言ってる、大人な同期たち。
それに比べて、のちに「社会不適合者」と会社で言われていた僕。
人事担当からしたら「こいつ、しばいたろか」って思ったと思います。

意外と頑固な僕は人事担当がぶつぶつ言うてるのを横目にさっさと荷物をまとめて東京駅へ向かい新幹線へ乗りました。地元大阪へ帰るために。

ところが名古屋駅あたりに着く前に携帯電話に着信があったのです。
「おまえ、いまどこ??」
声の主は研修でお世話になった優しい会社の大先輩のNさんでした。
僕「もうすぐ名古屋です」
Nさん「ちょっと名古屋で待ってて」
僕「え、、、、わかりました」

1時間半くらいまっていたところ、Nさんが僕を追いかけてやってきたのです。

Nさん「そんな大阪がいいんか?せっかく会社に入ったんだから、1年だけ中部エリアでがんばらんか?そのあとに大阪に行けるように俺がかけあってみるから」

さすがの僕もここまでされては心が動かないこともなかったのです。
ついでに高級なお寿司やさんにも連れて行ってもらって、さらに心が動いたのです。(めっちゃ単純)

「中部エリアでも一年だけでいいなら頑張ってみます」

そんなこんなで結局僕は最低限の「希望」を手に入れたのです。

社会不適合者過ぎて、浮いていた僕

ここで、自分で思う自分の性格を書いてみたいと思います。
・意外と真面目にやるので、言われたことはやらないと責任感を感じてしまう。文句を言いつつもやってしまう。
・せっかち
・明るい
・感情赴くままに行動する
・決断が結構早い(学校も先ほどのように、とりあえず決めてしまう)
・とりあえずやってみるタイプ
・嫌いなものを先に食べるタイプ。そうでないと、後半楽しめない。

ざっとこんな感じなのです。
それを踏まえた上で続きをどうぞ。

1年目はがむしゃらに先輩方に言われた通りにこなしつつ、仕事中も寝たいわけではないけど毎日寝てしまったりしていました。
上司は優しかったので、ツンツン攻撃でさりげなく起こしてくれていました(笑)
とにかく、細かい文字読むのが好きでないので、建築の法規や設計上のルールブック(メーカーならでは)をあまり読まずに設計をしたことで、何度となく地雷を踏みました。
そして優しい上司にも2回ブチ切れられて、蹴られたのを覚えています(笑)

なんとか1年耐えた僕は上司の約束通り、無事に大阪へと異動させていただくことができたのでした。
仕事は楽しいとは思わなかったのですが、それでも地元の友達もいるので、息抜きしながらなんとかこなしていく形で時間が過ぎていったのです。

真面目なんだけど、嫌なことはギリギリでこなしたい精神が満載の僕は、会社にも慣れ、それなりのキャラを確立したことも手伝って、毎日会社到着時間ギリギリを狙って、3日に1回は遅刻をしていました(笑)
優しい人たちばかりだったので、特に怒られるわけでもなく、サラリーマンでいながら出来る範囲で自由にふるまっていました。
ずっと髪の毛は長かったですし、スーツもパーカーに着替えたり、革靴も事務所の中では脱いで裸足で過ごしたりしていました。

会社内で仲のいい営業マンからつけられたあだ名が「社会不適合者」もしくは「社長」。
「お前は自由でええなあ」と言われ続けていました。

それでも、僕的には息苦しくて、メンタル的には本当に行きたくないし、1秒でも早く家に帰りたいと思って仕事をしていました。
ここでポイントなのは、かといってやりたい仕事があるわけでもなかったことです。今もあんまり変わっていないのですが、
僕の一番やりたいことは「友達と大学生のときや小学校のときのように心ゆくまで毎日わらって遊びたい」だけなんです。
サラリーマンである以上、やらされている感はぬぐえなかったので、仕事に何かを求めているわけではなかったのが大きかったのかもしれません。

とはいえ、曲がりなりにも技術者であり、設計士。お客さんとのやり取りでも「一級建築士なんですか?」と聞かれるたびに、「いえ、違うんですよ・・・・」みたいな気まずさが流れることに耐えかねた僕は仕方なく建築士の勉強を始めることにしたのです。

しかし僕には問題がありました。
普通は、工学部の建築学科を卒業し、その後大学院の建築学科を卒業すれば一級建築士の受験資格がもらえます(今は法律の改正で変わったところもあるようですが)。
最初に書いた通り、教育学部出身であったため、大学院を出ただけでは受験できないということが判明しました(笑)
しかたなく、1年目には宅建を取得、2年目に2級建築士を取得、その後の実務経験を数年積んだことでついに受験資格を得ることができました。

意外と真面目な僕は一度やると決めてやり出すと、他のことに時間が使えなくなり、会社の休憩時間、休日はもっぱら勉強にあてました。
一般的には資格学校に通って効率よく勉強する人が建築士資格では多いようなのですが、僕はお金がなかったこともあり、独学で勉強を開始。
「あーー、まじでだるい。ほんまだるい。こんなしょうもないもんに時間とられてだるい。」と毎日毎日ぶつぶつ文句を言いながらもコツコツと勉強をして、なんとか無事に合格することができたのでした。

そこで自信が得られたかというと、以前投稿した下記の記事に繋がるわけです。ここに書いた通り、一級建築士を取得したからと、なんだか安心感を得られたわけでもなく、むしろ不安になったのでした。

https://note.com/takashiitou/n/n865d8670bef1

自分のnoteです。

モヤモヤを打破するために転職を決意

上記の記事で書いたように28歳で一級建築士になりました。ただ30歳が近づいてきた中で「このまま人生が進むのか。このままいたら先が見えすぎている」という不安が僕につきまといます。

2010年頃からそんな気持ちだったのですが、2008年におこったリーマンショックもあり、建築業界も例外なく不景気でした。
会社でも「もっと受注しないとやばい」と経営者たちから聞かされており、
「大きい会社でもきついねんなあ」とわからないなりにも感じていました。

待てよ、仮にこのまま不況が続いて、建築業界がだめってなった場合、俺はどうなるんや。一級建築士とったけど、そもそも使い道なくなるやん。

これが一番最初の転職を考え始めたきっかけだった気がします。

モヤモヤしながら、そして仕事おもろないなあと思いながら、それでも日々は過ぎていきました。
29歳になったとき、夜中に何げなくインターネットで記事を見ていました。
そこにあったのが、【学生人気企業ランキング】。

それを何気に見ていたら、
大手の名だたる人気企業が上位20位を占めていました。
今はきっと構図は変わっていると思うのですが、
電機メーカー、車メーカー、商社、航空業界の会社が大半だったと記憶しています。

何げなく、順番に中途採用のページを見始めると、
大半が僕の設計の仕事には無関係で、仮に行きたい!と僕が応募しても瞬殺されそうな内容。加えて、やりたくないものばかり。

そんな中、6位くらいにシャープ(株)があり、募集をみたところ、「商品企画部」という募集がありました。

商品企画、なんか響きがかっこいいなあ。仕事したないけど、何かやらなあかんとしたら作る系のほうが潰しもききそうやしな。

そう思った僕は、募集ページを読み、フムフムと内容を確認。普通にいったら「住宅の設計しかしてないんだから経験者じゃないやん」って言われて終わると感じました。

これは作戦が必要だと、僕の少ない脳みそで考え始めました。
新卒のときは、やるきもなく適当に就職活動をしていたのですが、30歳を目前に人生の危機を感じていた僕は【やる気】を出して人生をかけて、この転職にかけたのです。

ここから先に載せる資料は、すべての転職活動でとった作戦で、どの会社もまったく同じ方針、やり方で全て上手くいったやり方です。
(転職活動で落ちたことないことが自慢です(笑))
新卒の就職活動でも通じるやり方だとおもいます。

*就職コンサルや学校での指導で同じような内容だったらすみません。僕はそういったものに頼ったことがないので、他がどうやっているのはしりません。ただ、僕は旭化成のときに就職セミナーに社員代表で呼ばれたりもしていた中で、受かるならこういう人やろなあというのも感じていたので、間違ってはないと思います。

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