モンターニュの折々の言葉 390「脳はあてにならない」 [令和5年5月9日]

「日本の自然主義は、フランスのゾラのような社会の鳥瞰図を描く方向には行かずに、作者の個人生活を告白的に語る「私小説」というジャンルの開拓に専念して、その本家であるフランスのものとは似ても似つかない方向に発展した。そして、それはわが国の近代社会が未熟であったためである、というのが文学的常識である。」

柳川春葉の『かたおもい』

「1940年前後、文学青年だった私たちの世代にとって、最大の課題は、小説のなかに、いかにして「考える人」を登場させるかということだった。ジードによって提出された「自意識」の問題は、小説のなかでは、専ら、恋愛その他の行動をする人物ばかりが描かれていたが、人間は行動すると同時に思考する存在であり、だから小説の描き出す人間像のなかには「思考人」を登場させなければいけない、という議論を一般化した。 そして、ジードは自らその実例として「贋金作り」の人物のひとりに、ノートを取る作家を創出したし、ヴァレリーはより純粋に、抽象的思考人を主人公とした「テスト氏」を書いた。その風潮のなかで、我が国でも横光利一は「紋章」によって、自意識家を行動家と対立させたし、石川淳は「白描」において、やはり日記をつける知識人を主人公に据えた。私たちは、バルザック以来、無数の行動的主人公を持つ小説の傑作を知っていたが、新しい思索人を主人公として、小説は可能だろうかということに、関心を集中させていたのだった。」「哲学小説の失敗ーテーヌ『エチエンヌ・メイラン』」

以上、中村真一郎「文学的散歩」から

 バイトが始まって、子どもたちに算数や英語、数学を教えているのですが、時々悩むことがあります。それは学習の仕方についてです。10歳前後で人の味覚がほぼ決まってしまうように、人の癖というか、個性のようなものも出来上ってきて、学ぶ仕方も本来は個性的ではないといけないのでしょうが、学校教育は所詮、歩留まりを高くするのが目標でしょうから、平均値を設定して、その周辺の生徒の成績を上げるくらいしかできないのではないかと思っています。出来る子は、学校で教わらなくても出来るし、出来ない子は、学校で教わっても出来ない、そんな気がしております。万人向きのメソッドを誰か開発してくれないかなあと、思うのであります。

 ところで、私の同期の一人が、彼は今、どこかの閣下ですが、「自分は、お寿司屋さんで寿司を20年以上も食べていない、おまかせで寿司が食べられるようなモンターニュさんの退職生活は松竹梅の松ではないか」と。確かに、確かに。家族で、年に一回か2回、馴染みの行きつけの寿司屋でおまかせを頂けるのは、これ幸いなるかな。家族の誕生日には、フレンチか、イタリアンで祝えるのは僥倖かなと。ましてや、月に2回、多ければ3回も芝刈りが出来ている、年金生活者のモンターニュ、過分とも言えるような、のうのうとした年金生活者でしょうね。

 尤も、アヒルの水かきではありませんが、見えないところで、それなりに努力している訳です。バイトもその一つ。好きで好きで、しょうが無いから学習支援をしているとは必ずしも言えない。社会貢献をしているなんて、思ったこともありません。ただただ、可能な限り、楽しい日々を長く続けたい、本心はそれだけなのであります。

 日本は、古来から、外にある良いものを上手く真似し、模倣技能を高めてきて、そうしたモノマネ上手が幸いして、今の日本の地位を確保できた面があるのはご案内の通りですが、令和の時代、困ったことに、真似るべき対象が外でなかなか見つからない。真似るべき対象がないなら、自ら産み出せばいいのですが、どうもそういう能力というか、才能は元よりあまりない。日本の歴史書である、「古事記」「日本書紀」も、案外、他国のモノマネのような気もしないでもない。

 学習のモデル、仕事のモデル、趣味のモデル、そして人生のモデルが枯渇しているのが、今の日本の現状なんでしょう。ですから、ついついAIに頼る。AIは、人間的に言えば、脳そのもの。脳というのは、高尚な機能をもった器官であると考え、すべての記憶がこの脳にあると思っている人もいるようですが、脳にあるのは、記憶ではなく、記録でしょう。AIもしかり。前述した同期の閣下は、ゴルフで使うリズムを司るのは脳にある記憶であり、その記憶をつかってゴルフをするのではないかと思っているようで、これは困ったなあと。

 脳があるのかわからないような百足ですら、歩行する際に、脚が絡んで転んだりはしません。ましてや人をやです。リズムは身体の記憶でしかない。頭でっかちの人に限って、人は脳で行動の指針を取っているといって、きかないのですが、毎日、農作業をしていた、かつての日本人なら、分かっていたであろう、身体の大事さを、今の令和人は感覚的に知らない。

 毎日ある程度の距離を、歩数を歩いている人なら、このリズム感が脳とは無関係であることが分かる筈ですが、たまにしか歩かないと、頭で考え出して、それで、頭が全ての行動を左右するものだと錯覚する訳ですな。ゴルフもしかりか。

 私は、出来る限り、歩くこととランニングを日々心がけているのですが、上手く、速く走れるようになるには、つまり、効率的に走るということですが、日々走っていないと体得できません。そして、ここが面白いところですが、その効率性というのは、徐々に構築されていくということ。負荷をかけることで達成されるということです。

 なんだか、今日は体が重いなあ、調子が悪いなあと感じるのは、脳がそう感じているのではなく、身体がそう感じている訳ですが、そういう時に、少し負荷をかけてやると、身体は逆に喜こぶのか、調子を上げるのです。これは脳で、身体の効率を上げろと意識してできることではないでしょう。脳は負荷をかけることを極力排除しようとする、怠けモノ。脳は記録だけが頼りで、それが意識。身体は感覚的記憶の宝庫ですが、無意識のモノ。その無意識こそがヒトの正体であると、池谷裕二さんが言っていたのに、閣下はちゃんと「モンターニュの折々」を読んでいなかったのかなあと(笑い)。

 これからバイトもあって、あんまりのんびりできませんので、この辺で終えますが、今日も朝は、ゴルフの練習場に行ってきましたが、まさしく、ゴルフは、脳(意識)対身体(無意識)の戦いのようなものです。脳が嫌がるような、身体に負荷をかけることが上達では如何に大事であるか、そして、身体が勝っているときほど、上手くボールを打てることを再確認した次第であります。

 中村真一郎さんは、日本における小説における「思考するヒト」の出現を期待していたようですが、ゴルフでは、あるいは、人生そのものでは、思考することよりも、行動すること、つまりは身体を動かすことを優先せざるを得ない。机上の空論も大事ですが、そのためにこそ、身体をもっと活用することが大事でしょうね。真の楽しみというのは、努力があってこそ、感じられるものであると言ったのは、誰であったかは忘れましたが、そうであるということを覚えているのは、私の身体であります。脳ではありません。失礼しました。

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