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サヨナラ*長岡

 長岡技術科学大学を卒業した。

 思えばどうしようもない大学生活だった。コロナ禍の中編入学し、オンラインの授業を受け、気づけば2年が経ち、卒業していた。学生同士で顔を合わせないのだから、交友関係も広がらない。オンライン授業はPCを起動さえすれば出席できるので本当に楽だが、大半の情報は頭に入らない。私の大学生活は、世にいわれるキャンパスライフの中でも、かなりつまらない部類に入ったのではないだろうか。「苦しみ」は確かに少なかったが、得られたものも少なかった。それは、私が何かを得ようとする努力をしなかったからだと言われれば否定はできない。能動的に行動を起こせば、また変わっていたのかもしれない。けれども、「陰キャ」というレッテルを自らに貼って生きてきた私が、そこまでしようとも思うはずもなく、せいぜい談話室に入り浸って、カウンセラーや学生と話し込む程度だった。

 3月10日、引っ越し業者が寮に来た。寮の一部屋ぶんの荷物は、驚くほど早く片付いた。空になった部屋に別れを告げ、私は旅立った。まっすぐ帰る気など、さらさらなかった。私は北へ向かった。これからまた西で暮らす私が、次に北へ向かう機会はいつだろうかと思うと、今行くしかなかった。新潟行きの電車に乗った私は、東三条で隣にキムワイプカラーの115系がいることに気づいた。私はふと思う。「この新潟で115系に乗るのも、今が最後のチャンスなのではないだろうか。」

 乗っている新潟行きの電車を、降りる以外の道は残されていなかった。私は国鉄型の古い電車が好きだ。115系に乗るために何度も出かけ、揺れと音と内装が織りなす旅情を味わっていた。これは私が新潟で作った大きな思い出の一つだった。そして、彼らの車両生命がもう長くないことは誰の目にも明らかだった。私はいつものように、制御電動車のボックスシートに陣取った。最後に乗れるという幸せと、もう乗れないという悲しさの入り混じった複雑な感情を噛みしめながら発車を待っていた私は、あることに気づく。隣のボックスに、見知った顔の人間が乗車していた。

 偶然は旅を面白くしてくれる。私はこのことをよく知っている。この115系に乗っていたのは、首都圏から来た友人だった。彼もまた115系に思いを馳せ、撮影旅行を敢行していたようだった。無計画に動いていた私が、この日ここで彼と出会えたことも、何かの運命と思うことができた。それで満足だった。115系は、私の心にも彼の心にも、何かを残してくれたに違いなかった。115系に対する私の感情を共有できる友人がいたという偶然は、何より幸せだったと思う。

 私は新潟に着いて、彼と食事をして別れた後、もう一人別の友人に会った。彼と会うことができたのも、また別の偶然だった。彼は新潟に実家を持ち、首都圏の大学に通っている学生で、帰省を終えて東京に戻るところだった。たまたま時を同じくして、新潟を発とうとしていた。間違いなく、私達の間には何らかの縁があった。短い時間だったが、別れの挨拶をして、新潟駅の新幹線改札を通る彼を見送った。

 そうしてまた一人になった私は、旅程の誤りに気づいて修正を余儀なくされながら北へ向かった。北日本を一周し、大阪に辿り着いたのは3月15日だった。この長い旅の思い出は、また別の機会に記したいと思う。主題から離れた旅の思い出としてはあまりにも膨大なのである。ただ、3月15日の夜、大阪駅の環状線ホームで見た大阪という街の明かりは、私を涙させるのに十分だった。

 私は、大阪が大好きだった。大阪を離れて一人暮らしをしたからこそ、このことに気づくことができた。大阪の夜の明かりは、大阪に戻ってきた私を歓迎してくれたようだった。私にとって大阪は、すべてを受け入れてくれるような、そんな街だった。私は紛れもなく大阪人で、大阪を愛していた。そしてこのことは、私が長岡をも愛していることと相反しなかった。

 この間、JRグループのダイヤ改正が行われて、新潟では115系が運用を終えたし、関西では奈良線を走っていたウグイス色の103系が運用を終えた。どちらも、私の愛した、私の"地元"の古い電車だった。近所で古くてうるさくて揺れる電車に乗れることを何より楽しんでいた、私の思い出の電車たちは、奇しくも私が大学を卒業するとほぼ同時に、使命を終えて過去となったのだった。

 3月23日、私は再び大阪を発ち、東へ向かった。私は卒業式という忘れ物を長岡に残していた。引っ越し業者の都合で早めに引き払わざるを得なかったため、もう一度長岡に向かうことになっていたのだった。普通に考えれば無駄な移動だが、けれどこれもまた、私にとって幸せだったのだと思う。これは私が移動が好きなオタクだという話だけではなく、もう一度長岡に思い出を作りに行けるということが大切だった。長岡もまた、私を受け入れてくれた場所だった。

 3月24日の夜、上越国境の最終電車に乗って、私は長岡に戻ってきた。降り立った長岡の駅前は、本当に不思議な感覚だった。見慣れたはずの景色なのに、よく知っている場所に来たはずなのに、私は知らない感覚を味わっていた。なぜだろうか。今思えば、もう私が長岡市民ではなかったためのような気がする。これまで見ていたこの景色はずっと、長岡市民として見る長岡駅だった。この時の私が見た長岡は、長岡市民ではなくなった、一人の旅人が見ている長岡だ。私はもうこの場所の人間ではなかった。けれど、それでも長岡は私を安心させてくれる場所だった。だからこそ、やっぱり不思議な感覚だった。

 次の日、私は卒業式に出席した。実感はあまりなかった。私のたった2年の、寂しい大学生活はこうして終わりを迎えた。少ない知り合いと集まって、いつもどおりに話をして、学位記と記念写真を撮った程度だった。

 私は卒業式で泣きたかった。小学校のときからずっと、ほとんどの時間をいじめられっ子のぼっちとして過ごした。小学校の生徒はほぼ全員が地域の同じ中学校に行く場所だった。小学校の卒業式なんて、なんの意味もない通過儀礼だとしか思っていなかった。情緒を得る感性が育っているはずもなかった。中学校に行っても、私を取り囲む環境は何も変わらなかったし、私も変わらなかった。中学校を卒業したとき、やっとこんなくだらない場所を離れられると思った。高専生活は、それまでの人生の反動かのように、良い友達に恵まれ、充実した5年間を過ごすことができた。私を受け入れて、育ててくれた高専の卒業式は、開催されることはなかった。あれから2年が経って、今度こそ卒業式というものに来ることができた。けれど、それはなにか空虚で、私の求めているものではなかった。考えてみれば当たり前の話だ。大学で何もしなかった私が、卒業式だけ一丁前に涙するわけもなかった。ただ空っぽの人間に、時間が流れてやってきたにすぎなかった。青春の最後の1ページなどというきらびやかなものを手に入れる資格は、私にはなかった。私はつくづくつまらない人間だと思った。

 私は空っぽであると信じたくなくて、何らかのエモーションを得たくて、学位記を手に学内を歩いた。フォトスポットにも行ったし、看板と記念撮影してみたりした。けれど、やっぱりそれは結局虚しかった。私が「卒業」に求めるべきではないものだった。

 学校に別れを告げて、バスに乗った。長岡でお世話になった遊び友達と会った。彼ともなかなか会えなくなると思い、会えないかと頼んだのだった。この時代に、インターネットから知り合った友人関係は、引っ越しなどで無くなるものではない。けれど、彼の近くにたまたま私が住んで、一緒に会って遊べたのもなにかの縁だから、離れるときには会っておきたかった。

 私と彼の間柄なら、どのみち特別な場所には行かなくて、いつも通りの時間を過ごした。彼は夜に所要があって、私と長い時間を過ごせないことを申し訳なさそうに謝った。私は彼にとっての何かになれているといいなと思った。彼はいつも、誰に対しても心優しい。故に苦労しているところも見てきた。結局また私の我儘に付き合わせて、彼が嫌がっていないといいなと考える。そうでないと信じるしかなかった。私は彼に心情を吐露した。学生として最後の長岡に、何等かのエモーションを求めていること。この時初めて、私はこの気持ちを言葉にした。

 彼は、「それは間違ってますよ」と言った。きっと、私を想ってのことなのだと思う。私はなぜ長岡に縋ろうとしているのだろうか。友達のいない虚無のようなキャンパスライフ。狭い寮の一室で暮らし、スーパーマーケットへ行くのに数十分自転車に乗る暮らし。バス停から寮の部屋までが無限の遠さに思えた雪道。大阪の団地で何不自由なく親と暮らしてきた私にとって、何も素晴らしいものではなかったかもしれない。それが当たり前だから、無理に何かを感じて得ようとしなくてもいい。彼は間違っていないし、私を理解しようとしない愚か者でもない。

 けれど、私はなにか足りないような気がしてならなかった。昔の私は感情が薄かったと思う。オカルトを否定し、科学に生きたいと思っていた。神も仏も存在しない、唯物論的な世界を見ていた。なのに、私はいつのまにか、縁だとか、運命だとか、そんなものを大事に大事にする人間になっていた。私がこの長岡に住めたのも、何かの縁だ。長岡での暮らしは、なぜだか悪くなかった気がする。

 「住めば都」という言葉がある。私はこの言葉が好きだ。ある土地に住むということは、自分の意思に関係なく、その土地に縛られるということだ。住んだ土地が合わずに苦労する人もいるだろう。まあでもどうせなら、土地を愛することができたほうがいい。住処を貶しながら生きるより、誇りながら生きるほうが楽しいに決まっている。私は立派な人間ではないけれど、その才能はあったと思う。長岡という土地に愛着を抱き、長岡を愛することができた。私がそう思える人間でよかった。長岡は、私の都だ。

 次の日、私はアクシデントに見舞われながら、大阪の実家に帰った。今は岡山の瀬戸内沿いで、社会人として生きている。あれだけ不便で辛いと思っていた長岡に、今は帰りたいとすら思う。別に何かの目的があるわけでもないのに、長岡の空気を吸いに、「帰りたい」。私と長岡は、強い糸で結ばれてしまっていて、その糸が私を引き寄せようとしてくるのだ。

 今住んでいる町も、大学のあった長岡とそう変わらない、いわば田舎だ。でも長岡に住んだおかげで、「田舎」の不便さを強く感じることなく、むしろ楽しむことができている。わかりきっていたことだが、社会人なんてものは私には向いていない。会社に行く度に、「もうやっていられない」と思っている。もし私が、この会社で働くことに耐えられなくなって、瀬戸内を去ることになったとしても、そこに居を構えて暮らしたということは、きっといい記録として残ってくれるだろう。


今度は一人の旅人として。そして、長岡に所縁を持つ者として。またいつか、訪れさせてください。

ありがとう、長岡。


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