なぜ世界は違ってみえるのか
自分が見ている世界と、他人が見ている世界。
過去の自分が見ていた世界と、現在の自分が見ている世界。
同じひとつの世界を見ているはずなのに、世界が違って見えるのはなぜだろう。
なぜ世界は違って見えるのだろうか
じつはこの問いは、世界の客観的認識は可能か、という問いともつながっている。
もし、世界の客観的認識が可能であり、ホモ・サピエンス脳が、世界をありのままに認識することができるのだとしたら、誰にとっても世界は同一のものであり、その都度それぞれに異なって見えることはない。
どの脳であれ、認識は一致するはずである。だがこれは現実にはあり得ないことだ。
世界が違って見える理由は、とりあえず次の3つに集約できる。
世界内存在、反省的思考、言語の多義性。
1)認識者が世界内存在であること。
2)人間の脳は反省的思考をすること。
3)言葉は一義ではなく多義であること。
世界内存在であること
われわれの脳は、世界を外から観察していると空想することができる。
だから世界の客観的認識が可能であると空想することができる。
だが、その思考する脳は、じつは世界の外に存在しているわけではない。認識する脳そのものが、世界内存在なのである。
だから、世界の一部を客観的に認識することはできても、そのすべてを客観的に認識することはできない。
われわれは世界を、ある程度の客観性をもって部分的に認識するのである。
そもそもわれわれはすべての世界を見ることはできない。われわれの認識がそれぞれにどの程度の客観性を有するかは別として、それは最期まで世界の一部についての認識にとどまる。
これは、普通に考えれば当たり前のことだ。
さらに、認識する存在それ自体が世界内存在であるという問題がある。
誰しもが、世界内の部分的存在として様々なバイアスを持っている。性、人種、年齢、世代、などバイアスを持たない人間はいない。
だが、なぜかわれわれの脳は、世界を客観的に認識できるかもしれないと妄想することができる。それは、なぜだろうか。
反省的に思考すること
過去の自分と、いまの自分。世界が違って見えることはしばしばある。
このことは多くの人にとってごく当たり前の感覚だ。
でも、なぜだろう。
成長したから?、経験を積んだから?、知識が増えたから?
経験を積んでも、行動も思考も成長しない動物もいる。
成長とは何か、経験とは何か、知識とは何か。
われわれは、経験を新たな知識に変え、経験を自らの成長や社会の進歩に変える力をもっている。その根本にある仕組みが、ホモ・サピエンスに特有の反省的思考である。
だから、過去の自分に見えた「世界」は、いま自分が見ている「世界」とは違って見えるのだ。
言語は多義であること
われわれは、すべてを言語で認識するわけではない。だが、認識したことは言語で表現されることで明瞭化され外部化され共有される。
だが、その言語は多義性をもつ。同じことばが必ずしも同じように解釈されるとは限らない。
こうした多義性こそが、言語の本質である。仮に、言語が多義性を持たなければ、すべての事物にすべて異なった記号を与えなければならない。
もう一つ、そもそも「ことば」は「世界を映す鏡」になり得るのかという問題がある。
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