疎開の思い出エッセイ。母のつぶやき「かんだんなか…」。伊勢エビのおやつ。
(あらすじ)父の出征中、豊かな自然に囲まれたふるさとへ疎開した。ひとり奮闘するたくましい母。しかし時折「かんだんなか……」と母はため息まじりに呟く。
質素な食事が続く毎日、たった1度だけ突然おやつに伊勢海老が登場した。戦後ふるさと長崎での暮らし、母の思い出、当時の食べ物の記憶。楽しくもあり、ほろ苦くもある懐かしい思い出をたくさん綴った田嶋 静の寄り道・迷い道エッセイです。
椿の里へ疎開
1944年、父の出征後、戦禍を避けて、母と妹の3人は、母方の祖父母の地・椿の里に疎開した。祖父母はすでにいなかったが周囲からまだ『とみ爺の家*』と呼ばれていた家屋での家族3人囲炉裏とランプの暮らしであった。牛の姿のない牛小屋と畑も残されていた。
母の里言葉
椿の里は、交通の便が悪い長崎県の西彼杵半島の集落である。椿の里は、人や文化の交流が少ない。古い言葉が残る独特の里言葉があった。私は、母の使う里言葉のシャワーを浴びて大きくなった。6歳の幼子は総てに柔軟である。椿の里の暮らしにすぐ馴染んだ。同い年の子が2人近くにいたが、特に聞き返すこともなく、交流ができ、すぐ仲良しになった。
ひとりで頑張る母
母は幼子2人を抱えて、引っ越したその日から、ひとりで頑張ることになった。母の兄弟姉妹は、かなり遠方で世帯を持ったので支援は頼めない。只、年の離れた末子のキヲ叔母が、風雲急を告げる中国大陸から戻り一緒に暮らした。キヲ叔母は、小さな造船所に勤め、朝一番に八重村の波止場から出る船で、長崎市の大波止に向う。しかし朝夕の食事を一緒にした記憶がない。多分、住所を実家で登録し、実際は、勤務先近くで下宿していた。母が、病に罹った時、頼み込んで呼び寄せ、看病をして貰った。叔母は、終戦を機に、長崎市内に下宿して、以後、一緒に暮らすことはなかった。母は病の折以外、たったひとりで戦いぬいていた。椿の里では近くに親戚もいたが高齢であったり、又従姉妹と遠縁でもあり常に頼れる存在というわけにはいかなかった。
疎開中の暮らし
母は、日々の暮らしに追われ、多忙であった。2人の子供を育て、ニワトリの世話をし、薩摩芋、麦、野菜等の農作業に追われ、毎日キリキリ舞いであった。とりわけ、薩摩芋の農作業に追われた。1年中の主食となる薩摩芋作りである。
母は、天気の良い日は、私と妹を家に残して、朝早くから裏山に入った。煮炊き用のビャーラ(小枝)を確保するためである。小枝を伐採して、小さくまとめて縛って置く。程良く枯れた物から順番に、担いで持ち帰って来るのである。母の背にあるビャーラの束には、季節の花の小枝が刺さっていた。うれしかったのは、グミやヤマモモの小枝が添えられていた時である。私と妹は、ひたすら食べられる物を待っていた。母は、当時30歳。ひとりで黙々と働いていた。
そんなひとりきりでの多忙な暮らしの中で、母は
「かんだんなか……」
と時々呟いた。
「かんだんなか……」
初めて聞いた時は、
(誰かとおしゃべりがしたいのか?)
と思った。
呟きを何度か聞くうちに、質素な食事が続いて、何やら物足りない、そんな思いを口にしているとわかった。
新鮮な魚などはお膳にのらない日が続いていた。ニワトリを飼ってはいたが、卵は、何かの時の贈り物となって、平素、家族が食することはなかった。そのような暮らしの中での母の呟きであった。
幼子2人を抱えて、日々、孤軍奮闘する中での溜め息みたいなものであったと思う。ふるさとでの暮らしと言っても、戦時下のこと、頼りの夫は出征中で、母は、毎日、緊張の連続であったことであろう。
豪華なおやつ登場
その頃、近海で漁をする大型船はすでに姿がなかった。辺鄙な椿の里の周辺にまで、敵機が来るようになると、集落の爺様たちは怯えて、西の浜から小舟を出すことすら出来なかった。そこで椿の里の人々は質素な食生活を強いられた。
物足りない食事が続いていた或日のこと、午後3時過ぎた時刻に、茹でた伊勢海老が、ひとり1匹ずつ配られた。我が家が3匹、当時、牛小屋に仮住まいしていたマキセさん一家が3匹、都合6匹の伊勢エビである。思いがけないご馳走に驚いた。
母の手つきを見ながら、伊勢海老を両手に持って、茹で立てを、パキッと割った。白いエビの塊が現われた。かぶりついた。後は無我夢中である。殻を外し、中身を全部、指で掻出して啜った。
「この世にこんなにうまいものがあるのか」
と思った。突然の豪華なおやつである。訳が分からないまま、
「うまかった」という記憶だけが残った。
後にも先にも、このような豪華なおやつはなかった。
「よう覚えとっとね」
大人になってから、その時の不思議な記憶を、母に訊いたことがある。
「よう覚えとっとね」と言って、母は苦笑いした。母の語る伊勢海老の話は次の通りである。
椿の里の知り合いの爺様が、八重本村のある人に無理に頼まれて、危険をおかして舟を出し注文の伊勢エビ6匹を捕獲した。
ところが、持って行くと、
「実は用がなくなった」
と無常にも引き取りを拒絶されてしまった。注文キャンセルとなりやむを得ず、その場は引き下がったものの、自宅で食べる気持ちにはならなかった。戦時下のことである。「贅沢は敵だ」のスローガンの下での辛抱の毎日。
「これは始末に困った。しかし、どうにかしなければならない。買い取ってくれる家は、おいそれとない」
困った漁に出た爺様は、私たち家族に泣きついた。
留守家族は、主が月給取りで、出征中も、なにがしかの手当が支給されていることを耳にしていた。そこで頼み込んだのである。事情を聞いて人助けと思い、言われるままにキチンと対価を払い伊勢海老を受け取った。
しかし、である。
近所の人々は、非難の眼差しを向けた。
「夫は兵隊さんで、命がけで戦っているのに……」と。
食べられなかった人々の無言の視線はきつい。
(伊勢海老を6匹も……)
集落の人には、食べたくても食べられないご馳走である。そのご馳走を食べた家族への非難の矢は次々と放たれた。道ですれ違っても無言の矢であった。しばらく、母とマキセさんは、小さくなって暮らした。
父の帰還
1945年8月15日終戦。
戦地からの復員が開始されたが、父の消息は不明のままであった。
1年が過ぎたある日、父は、椿の里の『とみ爺の家』に無事な姿をみせた。
父はすぐに、長崎市の造船所に復職して、焼け残っていた社員寮に入った。
長崎市は原爆で焼け野が原になっていた。
大陸からの引き上げ、疎開先から戻る人がびとが溢れ、私たち家族が揃って住む家は、おいそれとは見つからなかった。
そのため、父は、毎週、家族に会うため椿の里に通うことになった。
土曜日の午後4時に仕事が終るとすぐに、椿の里を目指して出発した。
長崎市の西の外れにある滑石峠を越えて7里余りを歩いた。
到着は夜の10時近くになり、私と妹は待ちくたびれて寝てしまっていた。
父の週1回の椿の里訪問は、1年ばかり続いた。
雨の日も風の日も歩いて妻子の元を訪れた。
1947年、ようやく、叔母から、長崎市の応急住宅が空いたという知らせが届いた。
私は小学3年生、妹は1年生であった。弟(次男)が生まれて、子達は、3人になっていた。
夏休みの間に引っ越すことになった。
椿の里からの引っ越し
以下は、少し大きくなって母から聞いた、引っ越しの苦労談である。
疎開の時と同様、母はひとりで、役場に相談し、業者の手配をした。
家財道具は少なかったが、桐のタンス1棹と母の和服が納まった柳行李2個は、丁寧に運ばれた。
引っ越し荷物は、八重の浜から、大海を経て、長崎の港に入った。
ここから別の船に荷は移り、浦上川を遡った。
母と私と妹、乳児の弟は、とみ爺の家を閉めて、八重の浜から定期船で
長崎市に向かった。
こうして、ようやく一家揃って暮らすことが出来るようになった。
長崎市内に戻っても、戦後の食料事情がよくなった訳ではない。むしろ、より悪い状態となっていた。
配給の米は外米、大豆を潰した物(アメリカでは牛の飼料と言われる)が配られた。薩摩芋すら手に入らない日もあった。
今になって思うと、父の復員後から、
「かんだんなか……」
という母の呟きはなくなっていた。
戦場に夫を送った母は、幼児2人を抱え、慣れない農作業をして、質素な食べ物に耐え、ひとりぼっちで戦っていたのである。
私はやっと、母の「かんだんなか」という呟きを理解した。
引っ越し後の新しい暮らしの中で
夏休みがまもなく終わるという頃、近くに魚屋さんが開店した。時間は決まっていないが、鰯が入荷するようになった。母は、魚屋の前で待ち受けて、トロ箱一杯の鰯を購入した。私は、マイワシ、ウルメイワシ、片口イワシ、エタレ** などの鰯の種類を、見て聞いて覚えた。鰯は、煮付け、カンボコ(かまぼこ 練り物)、干し魚となって、数日間は食卓を豊かにした。
酢ヌタ、カンボコ、煮付けと次々に料理しても、トロ箱には鰯がまだある。残った鰯は、内臓を取り、開いて塩を振った。それを干すための木枠を父が作った。突き出した釘の先に、鰯の尾の近くを引っかけてブラ下げる。3段か4段ぐらいの四角い魚干しである。物干し竿の、ずっと上まで、まるで戦国時代の旗指物のようになった鰯を掲げて、しばらく太陽に当てた。猫に盗られない、ハエに卵を産み付けられないための工夫である。この一塩干の鰯も、炙って食卓に並んだ。毎日まいにち、鰯が続いた。猫たちには、鰯の頭が与えられた。
こうした日々の中で
「かんだんなか……」という母の呟きは消え去っていた。
「猿蓑」の俳句の調べ書きするうちに母の里言葉をいくつもみつけ、それを元に母との暮らしのエッセイを書くことにつながった。エッセイを続ける中で母の「かんだんなか」という言葉まで思い出した。こうして今も長い寄り道エッセイが続いている。***
伊勢海老のおやつから幾星霜。
私は、仕事や冠婚葬祭などで、美味しい料理に出会う機会が幾度もあった。しかし、伊勢海老を丸ごと1匹、かぶりつくという豪華なおやつは、2度と体験出来ないでいる。
戦前戦後を、たくましく生きた母のことを、伊勢海老のおやつと共に、懐かしく思い出す。お母さん、ありがとう。
(田嶋のエッセイ)#7「猿蓑 の 寄り道、迷い道」 第4章「今日のおやつはなんと伊勢海老」
2024年4月10日
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。
(注釈・補足)
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