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名指すための指が、星座を数えていた

以前ブログに書いた短い文章です。書いた日付は2015年11月16日。今回、本文中の「意味論的」を「意味的」に訂正し、見出しと画像を付け足しました(2020年05月14日)。

譜面からの逸脱

録音技術が発達して音楽が変わってしまったことのひとつに、譜面からの逸脱があると思う。耳から聴こえてくる音楽は、その痕跡を譜面という形で残してきた。譜面とは、目に見えない音の実在を表記したもの、それはどちらかといえば音楽の「構文的」な側面を表していると思うけど、それら譜面に記載された内容は究極のところすべて「数」に還元できる。

譜面があるということは、音楽をアートから分け隔てる違いのひとつになっていたと思う。演奏行為は一回限りのものだけど、譜面はいつまでも同じままで、演奏者はその都度、譜面を解釈し直すことで音楽を新しく再生できる。しかし譜面は、たとえば絵画のように「描かれた結果」としての作品とは違って、演奏という行為の前に存在していた。アートに設計図があったとしても、それは譜面に相当するような位置に置かれていたわけではなかった。

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「構文的なセリー」と「意味的なセリー」

録音技術の発達によって、譜面を必要とはしなくても音楽を作り、流通させることが可能になってから、何が変わったのかといえば、音楽の「構文的」な側面にあまり目が向けられなくなった、ということがあるかもしれない。一方で、音楽の「意味的」な側面は保持されてきたといえる。音楽には言葉と同じような「単語」が存在しないために、言葉と同じ「意味」は発生しないといわれるけれど、音楽が何らかの価値を示す方向には常に意味に似たものが伴っている。 また、「意味」の在り方には、「無意味」であるという在り方も含まれてくる。たぶん音楽には、ナンセンスであるところの意味のセリーが必要だったのだろう。これは、「構文的なセリー」による音楽の非ー意味化とは異なった、もうひとつの「意味的なセリー」と呼べるものだと思う。

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すべては「数」に還元できる

録音された音楽は、譜面を伴わなくてもメディアとして流通できる。譜面から自由になった音楽はアートに似てくるのかもしれない。音楽は、さらにデジタルの内側へと入り込んだ。今度はデータとしての流通だ。ところが、技術は留まるところを知らない。人工知能、アルゴリズムによる作曲は、再び音楽を譜面の問題に引き戻すことになるかもしれない。すべては「数」に還元できる。ただし、これからは必ずしも人間を必要としなくなった。芸術が、自然と人間との関係のなかにあるものだとしたら、これは芸術からの逸脱。今後音楽がどんな道筋をたどるにしても、昔と同じところに戻ってきて くれそうにはない按配なのだ。しかしそれでも、それは、「音楽」という言葉で呼ばれ続けられるだろうとは思う。

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