ゲーム制作のための文学(5) 竹取物語、日本人らしさを考える。
5月29日に開催される文学フリマ東京に向けて、現在、同人誌『ゲーム制作のための文学』を制作中です。
昨日はオイディプス王について書きましたので、今日は日本の竹取物語について制作します。
『ゲーム制作のための文学』は、日本と西洋の両方を扱いながら文学について考えて行きます。
日本人とは何か、という問題を提起すると政治問題を扱うことになるように思われますが、まさにその通りだと思われます。
とはいえ、日本文学には日本人が登場して、そして日本人を描かなくてはなりません。
政治とは何を事実だと考えるかを含みます。それは価値観というよりも、歴史認識の問題です。
物語が政治において中立であることはありません。そして、物語という存在そのものが特定の政治的立場を支持しています。
『ゲーム制作のための文学』『
第四章 竹取物語
言葉の本質はその意味、定義というよりは、どちらかといえばその言葉がどのように使われてきたのかという歴史にあります。誰かがリンゴのことをオレンジと呼んだとして、その人が文部科学省を支配するような権力者であったとしても、リンゴの正式名称がオレンジに突然変わることは滅多にありません。ただ、その瞬間にリンゴをオレンジと間違って呼んでしまったと解釈されるだけです。
理由は非常に単純で、書物というのは過去に書かれた死んだ労働であり、そして言葉の機能というのはただ生きている人たちによる情報交換だけではなくて、過去の人々から情報を受け取ることにも利用されるからです。なるほど、過去は曖昧かもしれませんが、平安時代の前に江戸時代があったと断言して、それが通用するほど曖昧ではありません。書物に書かれた記号も変化しません。
世界は直感ほど単純ではありませんが、権力者や社会的強者が望むほど自由自在に解釈できるほどは曖昧ではありません。
言葉というのは、独裁者が望むほど曖昧ではありません。ただ、歴史を軽んじる人にのみ曖昧に見えるのです。
情報戦には制限があるのです。
さて、前回は物語と悲劇について書きました。
オイディプス王という題材から明らかなように、昨日まで使用していたのは「story」という西洋概念の翻訳としての物語です。
しかし、日本には昔から物語という単語はありましたし、今でも日本語としての物語は命を失っていないように思われます。
かつて、紫式部は竹取物語を物語の祖先と呼びました。
私たちも竹取物語を物語の祖先と考えて、そもそも日本語で物語とは何であったのかについて考えてみることにしましょう。
竹取物語は平安時代初期に生まれたと考えられている物語です。この物語は四つの段階で展開します。
(Ⅰ)かぐや姫が生まれて成長する。育て親が金持ちになる。
(Ⅱ)五人の公達から求愛されて、無理難題を押しつける。公達は全滅する。
(Ⅲ)天皇から求愛される。
(Ⅳ)月から軍隊がやってきて、かぐや姫が月に帰る。日本は負ける。
竹取物語の思想はシンプルです。
外国人を差別せずに受け入れた竹取の翁は大金持ちになり、外国人に日本の価値観を押しつけようとしたり、日本人的な考え方で接しようとした五人の公達は悲惨な最期を迎え、そして傲慢にも先進的な外国に立ち向かった天皇は力及ばず、愛するかぐや姫を圧倒的軍事力を持つ外国に奪われてしまう。
つまり、日本は素晴らしいとか日本人には日本人の良さがあると主張する排他的勢力を放置していれば、日本はいずれ取り返しの付かない大きな犠牲を払うという思想です。
作品を読めば分かりますが、五人の公達はかぐや姫を侮っており、そのため致命的な失敗を犯します。
物語において、かぐや姫の知性は非常に高く描かれており、そして聡明すぎるので下等で愚かな日本人には彼女のことが理解できません。
そのため、五人の公達は日本の常識に従い彼女と接します。
しかし、うまくいきません。日本では通用していたことが、外国人には通用しないことが愚かなので分からなかったのです。
天皇は公達に比べると外国への理解がありますが、同じ運命を辿ります。
天皇は自分はすごいと思っていましたけど、かぐや姫は天皇をすごいと思っておらずなかなか関係はうまくいきません。
そして、かぐや姫が月に帰るとき、彼女を日本に引き留めるために、日本はすごいのだ日本人はやればできるのだと月の軍隊を迎え撃ち、第二次世界大戦の帝国軍のように、なすすべもなく粉砕されるのです。
竹取物語には日本人が考える世界観の多くが含まれています。
外国には月のように強大な敵がいること、月のような圧倒的な能力を持つ天才が日本にやってくること、外国から来た人から多くのことを学べなければ生きる道がないこと、そして国内には日本らしさにこだわりプライドを守るために日本を滅ぼそうとする保守勢力がいて、彼らを放置することは絶対に許されないという思想です。
竹取物語に連なる源氏物語や平家物語では、この「良い外国、悪い日本」という思想は控えめになりますが、それが完全に消えることはありません。平家物語の冒頭を思い出せば外国思想を重視していることは明らかで、最後は後白河法皇と建礼門院が仏教の重要な真理に気がつくところで幕引きとなっています。
源氏物語においても、主人公格の紫の上が最後に頼るのは、もっとも内裏から遠い世界にいた明石の君なのです。救世主は常に外部からやってきます。そして、それに気がつかない愚か者が日本の敵なのです。
意外に感じるかもしれませんが、この日本の物語の伝統は、現代の異世界転生に引き継がれていると思われます。
ただし、異世界転生は主人公がかぐや姫であり、隔絶された文明国日本から来た主人公が異世界の未開人たちと生きていく内容です。日本がなぜか外国です。
とはいえ、ここで日本文学は愛国主義に堕落したわけではありません。注目するべきは、主人公は日本人という設定ですが実際のところ伝統的な日本文化には暗く、神道や仏教ではなく西洋思想で武装された日本人であることです。
転生者たちは神道と仏教、儒教の精神により成功するのではなく、科学と自由主義と資本主義により成功します。彼らは無神論者であり、その精神は完璧な唯物論者です。日本人は外国人に日本人の理想を表現します。そして日本が邪だと考える伝統的日本人や保守的自由主義者と戦い勝利します。
日本文学における「物語」は、西洋文学における「物語の否定」を含みます。
私たちは日本らしさを考えるときに、神道や仏教などの宗教を想定する場合が多いですが、日本文学も、日本や日本の強みについて考えるための大きな助けになります。
そして、注目されることは少ないですが、日本文学には神道や仏教、儒教とは異なる日本文学特有の思想があります。それは外国の素晴らしい思想や文化は積極的に取り入れていきましょうという開放的な思想です。
しかし、ここで注意点があります。日本人が外国文化として認識する対象には衝撃的なほど厳しい条件が設定されていることです。第一の条件は海外で成功していること。敗者の思想に日本人が興味を持つことはありません。第二の条件は、その思想や文化を取り入れた国が世界の頂点にあること。千年前の中国や、現在のアメリカに劣る国の文化はどれほど世界で流行していてもゴミです。第三の条件は、高度で抽象的で学問として習得するのに大きな努力が必要なことです。中国の道教や、アメリカの自己啓発などは軽蔑です。なぜならば、思想が浅くて幼稚だからです。
実際のところ、日本は伝統的に自分達の理想を海外が肯定してくれたときにのみ、その思想を積極的に受け入れます。日本人の首は上を向いているときに固定されていて、そのため日本人に見える西洋人は実際の西洋人ではなくて、差別や格差などの日本より劣ったところがそぎ落とされた理想的存在なのです。
外国文化を無条件に受け入れることは、文字通りの意味を持ってはいません。
ここで文学について考えるために、ある考え方を紹介しようと思います。
それは文学は全体で一冊の本であるという考え方です。
日本書紀から始まり、異世界転生に至るまで日本文学は一冊の大きな書物として読むことができます。文学とは個々の作品を読むのではなく、この文学という一冊の大きな本を読むと考えた方が有益です。
文学を書くとは、この大きな本の次の章を書くことなのです。
』『ゲーム制作のための文学』
今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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