ただの糞野郎

プチ天声人語、600字エッセイを日課として書くことにしました。 表題『600字エッセイ…

ただの糞野郎

プチ天声人語、600字エッセイを日課として書くことにしました。 表題『600字エッセイ』以降の記事は、全て600字ちょうどで書いてます。 長々しい雑記は、あまり好きではないので・・。 趣味:読書、サウナ、TikTok

最近の記事

もう、ええわ

noteを書くにあたり、自分なりにテーマを決めた。 それは『600字で書く』ことだ。 何か書きたいけど何を書けばいいかわからない故、 無理にテーマを設けた。 ふと、人生も同じなのではないかと思った。 日常のささやかな事象を人生になぞらえるのは、 かなり俗で浅薄なのは、言うまでもない。 だけど、僕は思ってしまったのだ。 なにが人生と同じかって、 強引にでもテーマを決めないと始まらない、 ということだ。 なんとなく何かをしたい、 何者かになりたい、 しかし、それをどういう方

    • 明日、春が来たら

      「走る君を見ていた 白いボールきらきら」 これは、松たか子『明日春が来たら』の冒頭歌詞である。 数十年前に大ヒットし、春をテーマにした名曲の一つだ。 春の曲と言えば、桜や卒業、旅立ちなど、定番の風物を描いた名曲が多い。 その中でも『明日春が来たら』は、決して有象無象に埋没しない春歌であると、僕は思う。 それは、この曲のテーマが『高校野球』であるからだ。 歌詞の中にも野球を彷彿とさせる用語が出てくる。 白いボール、スタジアムの歓声、スパイクの足音、ウィニングボール。 これ

      • 「千の風になって」

        昨日、お彼岸ということもあり、母方の祖父の墓参りへ行ってきた。 多分7年振りであろう。 なかなか不届きな孫であったと少し反省した。 祖父母は二人で理容室を経営し、僕も小さい頃何度か髪を切ってもらった。 キンキキッズの堂本光一みたいな髪型にしてくれとオーダーしたら、 戦時中の子供みたいな短髪になり幻滅したのは、いい思い出だ。 「私のお墓の前で 泣かないでください」 これは数年前に大ヒットした秋川雅史『千の風になって』の冒頭歌詞である。勿論、僕は誰かの墓前で泣いたことなどな

        • 合理的な『ミラノ風ドリア299円』

          先日、SNSで『サイゼリヤ論争』なるものが、炎上騒動に近い盛り上がりを見せていた。異性の価値観のバロメータを測るにあたり、初デートで女性をサイゼリヤへ連れていくのはアリかナシかという、極めてくだらない内容であった。 実は世間と時を同じくして僕も偶然、サイゼリヤに最近興味を持った。この論争きっかけではない。先日読んだあるビジネス本に、サイゼリヤ創業者の正垣泰彦氏の話が出ており、彼に対して人間的魅力を感じたためだ。 正垣氏は、東京理科大を卒業するタイミングでサイゼリヤを創業し

        もう、ええわ

          生きてるだけで偉い

          新聞の社説欄に、卒業の季節を迎えた学生たちへのエールが綴られていた。東京駅で帽子を一斉に天井へ投げ、マスクもせず嬌声をあげ、スマホで写真をひっきりなしに撮影する。そんな姿に、このご時世にも関わらず・・と目くじらを立てることなく、むしろ未曽有の二年間の中で青春を過ごした彼らへ、同情と激励が文章には込められていた。 気軽に飲み会へも行けず、旅行にも行けず、活動的な趣味にも精を出せず・・。満足な青春の思い出を作れないまま、人生を縛る社会人生活へ、あれよあれよと突入してしまう。社説

          生きてるだけで偉い

          600字エッセイ

          日課として何か書きたいと思っているものの、そうそう書きたいものなど浮かばない。その要因の一つが、テーマというものが決まっていないからだ。テーマを決めれば、自ずと散漫とした思考が絞られ、何かしら書く行為に繋がっていくだろう。 新聞の社説だって、今日の社会的事象についてというテーマがあるからこそ毎日書けるわけだ。それをかなり私的に凝縮したものが日記であろう。縺れた思考や錯綜している情緒を整理するには、とても効果的な行為である。 といっても、別に僕自身、自分のつまらない日常を徒

          600字エッセイ

          拳骨で読め、乳房で読め

          表題の文句は、新潮社文庫のキャッチコピーとして、糸井重里が書いたものである。繊細な感性を研ぎ澄まし、未知の感覚や知識を享受する読書の宣伝文句としては、いささか肉体的過ぎると感じるのは僕だけではないだろう。 しかし、本当に読者を震わせる本というのは、肉体で読ませるものなのではないか、と最近思うようになった。これも、石原慎太郎『太陽の季節』を読んだ時の衝撃に因るものであろう。 『太陽の季節』の読書中、何度も全身の筋肉が駆動するようなパワーが身体を走った。特に主人公の境遇と近か

          拳骨で読め、乳房で読め

          一体俺はどうしたというのだ

          全くもって無気力だ。 ただ漫然と小説を読み漁り、SNSを見ているだけだ。この二年間。 もの書きの才覚が多少あると自負して書いた小説(原稿用紙103枚程度)を、 ある純文学系の公募に出したが、あえなく落選。 当然だろう。話の三分の一を締切日当日に書き上げ、ろくに推敲もせずに、 締め切り時間3分前に出したんだから。 何かを書いたり、例えばパワポで資料を作る時、俺は入念に推敲するタイプだ。 というか、大抵の人はそうではないか。 力業で一気呵成に仕上げたものが一発で高水準のモノに

          一体俺はどうしたというのだ