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拳骨で読め、乳房で読め

表題の文句は、新潮社文庫のキャッチコピーとして、糸井重里が書いたものである。繊細な感性を研ぎ澄まし、未知の感覚や知識を享受する読書の宣伝文句としては、いささか肉体的過ぎると感じるのは僕だけではないだろう。

しかし、本当に読者を震わせる本というのは、肉体で読ませるものなのではないか、と最近思うようになった。これも、石原慎太郎『太陽の季節』を読んだ時の衝撃に因るものであろう。

『太陽の季節』の読書中、何度も全身の筋肉が駆動するようなパワーが身体を走った。特に主人公の境遇と近からず遠からずの男(比較的育ちが良く、付属校上り、ナンパや酒や万引き等の非行を多少なりとも経験している)であったら、いつの間にか、頬がほくそ笑み、本を持つ手には過剰な力がこもっていることだろう。

ここでは、本のあらすじや世間的評価については触れない。興味があればネットに幾らでもその手の情報は転がっているので、適当に調べてもらいたい。

一つ言えるのはこの作品が、都会のインテリ不良たちからは激烈な支持を得て、田舎の冴えない優等生たちからは多大な反感を買い、大人たちからはしかめっ面で唾棄され、女性たちからは人非人を見るような目で侮蔑される、という強烈なインパクトを放っていた、ということだ。

「処女撲滅運動万歳」「五千円で英子を売り飛ばした」「玄人女を口説く際には、大人顔負けの手管を身につけているこれら紳士」など、ちょっとした表現が、昨今の小説に跋扈する性描写よりも、刺激的なパワーを持っている。

この作品の主人公は、慶應義塾高校のボクシング部員である。冒頭からボクシングで躍動する力強い肉体と闘争心を剥き出しにした描写に始まり、手強い対戦相手に対する主人公のスタンスが、女性に対するそれになぞらえて描かれている。

そのため終始、試合の観客席で、次の瞬間のスリルを残酷に期待する観衆の一人として、小説の展開を観戦している気分になれる。そうだ、読書というより観戦に近い。脳味噌、いわゆる左脳で読ませる小説ではないのだ。

こういう小説が、今この時代にどのくらいあるのだろうか。男なら拳骨で、女なら乳房で読むような作品、むしろそれを生み出す豊富な経験とたぎる情熱を持った作家がどれほどいるのだろう。ほぼいないに等しいのではないか。それは、肉体に、欲望に、真っ向から突進していく人間がもういなくなってしまった証左であるのかもしれない。

改めて、先月二月一日に逝去された石原慎太郎氏のご冥福をお祈りします。

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