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新しい教育プログラムに向かって

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たいたけのささやかなチャレンジへの道のりを記しています。
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記事一覧

新しい教育プログラムに向かって

はじめまして。たいたけと申します。 こちらのnoteでは、独自の新しい教育プログラムづくりの過程を、記していこうと思っています。 ここ何年もの間、自分が受けた教育とさして変わらない既存教育サービスを提供する中で、本当にこれをつづけていっていいものだろうかと疑問が膨らみつづけていました。また、社会人として利益追求の仕事をする中で業界的な伸び悩みもあるのですが、これはもう社会的な伸び悩みになっているのではないかという疑問も膨らみつづけています。 それはなんなのか。それがどう

脱成長していく日本(拙考)

僕は何年もの間、変わりばえしない教育サービスを提供しつづけ、はたしてこのままでいいのだろうか?と疑問を持ちつづけてきました。また、社会人として利益追求をしてきた中で業界的な伸び悩みを年々感じるようになり、さらには社会そのものが伸び悩んでいるんじゃないか?と疑問を持つようになりました。 こちらではまず後者の問いに対して、いったんの僕なりの回答をします。前者の問いへの回答は別記事でご用意します。参考文献はこれまで記事にしてきた7冊の本です。 結論から言いますと、日本は脱成長し

脱成長社会と子ども(拙考)

前回は日本が脱成長していくことをお伝えしました。今回は脱成長社会に生きる子どもたちにどんなことが必要なのかを考えてみます。これは大人、親も真剣に取り組む価値の十分にあるテーマだと思います。 前回とやや重複しますが、エネルギー利用は増加の一途。地球資源は有限なので、増加を維持できないことは明白です(下図3つ全て『現代社会はどこに向かうか』より)。 人口増加はエネルギー利用の限界にあわせ、ピークアウトすると予測されます。 私たちは(下図)③の時代をとおり越し、子どもたちは④

純粋性の高い学ぶ場をつくりたい(拙考)

僕は何年もの間、変わりばえしない教育サービスを提供しつづけ、はたしてこのままでいいのだろうか?と疑問を持ちつづけてきました。また、社会人として利益追求をしてきた中で業界的な伸び悩みを年々感じるようになり、さらには社会そのものが伸び悩んでいるんじゃないか?と疑問を持つようになりました。 この記事では前者の問いへの回答をします(後者の問いへの回答はこちら)。 ひとまずの回答として、それはイメージに近いのですが、純粋性の高い学ぶ場をつくりたいと思うようになりました。 雑念や雑

問いと回答と休憩(雑記)

3か月前の僕は問いました 変わりばえしない教育サービスを提供しつづけて、このままでいいの? ていうか社会そのものが伸び悩んでいない? 今の僕は回答します 日本は脱成長していくよ、その中で純粋性の高い学ぶ場をつくりたいんだ 3か月前の僕はさらに問うでしょう それは一体 何のために? 誰に? いつ? どのような環境で? 何を? どのように? 教育サービスを提供したいの これからの僕は、さらなる回答の準備のため 見ようとしている世界の解像度を上げていくつもりです でもちょ

問う=問われる(雑記)

リビングのテーブルの上にPEANUTSのマグカップが3つある 妻はウッドストック、娘はスヌーピー、僕はチャーリー・ブラウン 僕はチャーリー・ブラウンが好きだ 何をやってもうまくいかないけど、とても心のきれいな人だと思ってる 誰かに傷つけられたとしても、誰かを傷つけることはないと信じている 上手ではないけれど野球が大好きで、大雨が降っても試合をしようと言う 赤毛の女の子が大好きで、アクションすると結果が怖いからいつも待っている 凧はいっこうに揚がらないし、アメフトボールを蹴ら

学ぶ楽しさをさがす塾をふり返った理由(雑記)

これまで8回にわたって述べさせていただきました。こんな昔話を持ちだしたのには2つの理由がありました。 ひとつは「僕は誰だ?」ということです。教育や社会を問うたところで、自分が誰なのかを掴めないと何も為せないと考え、自分を問われる側に置き、問う自分の立ち位置を確認したかったのです。 大学で教職課程の単位習得をしても教員を目指さず、卒業後にFOLSを起業、以後6年経営・運営していました。当時何を大切にして、どこを目指し、一体何ができたのかをふり返ることによって自分がいくらか見

誰にその教育を届けたいのか(雑記)

仮に日本に上流・中流・下流の三層があるとしたら、誰に届けるのかを民間教育者は常に考えていると思います。僕もご多分にもれずその見方をもちながら、脱成長社会における純粋性の高い教育の場づくりに向けて、それを誰に届けたいのか検討したいです。 すでに多くの方(特に教育関係者)がご存知の話ですが 東大生の親の年収を調べると、約六割が九百五十万円以上だといいます(東京大学「学生生活実態調査報告書2018年」)。全世帯のうち所得が一千万円以上のものはわずか12パーセントですから(201

「共に育つ」ってなんだろう(雑記)

以前、教育から共育へでこんなことを記載しました。 「子どもと共に育つ」ってどんなだろう?という問いが生まれました。 たとえば、うちではあつまれどうぶつの森を父・母・子みんなでやっています。島の住民を誰にしたいか、どんな島にしたいかを話し合いながら、島づくりや博物館の展示物収集を協力してやっています。じゃあ共に育っているかと問えば、う〜ん、なんか違うよな、と感じます。 地域共育であれば「子どもと共に育つ」よりも、僕にとってはわかりやすいです。 ルソーの『社会契約論』と『エ

子と親の共育始め(管見)

僕は常々思っているんですが…(整くん風) 教育っていつも親からですよね 子どもからじゃない なぜ親からなのかって言うと 親はいつも「未来」を眺めているからなんです 「未来」を心配して教育を受けさせたいって思うんです でも子どもはそんなことしない 「今」を見つめている 「今」を精いっぱい生きている 僕は親こそ子どもから教育を受けるべきなんじゃないかって思うんです… 共育は親と子のどちらから始まるのでしょうか 未来志向だったり不安から入る場合は教育同様、親からだと思いま

ちょっとひと休み(雑記)

ちょっとひと休みしたいと思います。かれこれ100日以上連続で書いてきたのですが、徐々に僕の中で黒いモヤモヤみたいのが出てきて、あ、これはいけないと感じたので、いったん筆(タイピング?)を休めます。 僕は生きていく中で、いのり、はたらき、くらす、という三つの行いを大切にしたいと思っています。この世界に生を与えられ、生の限り何かできることをお返しする。天地や自然あるいは神(神々)へ<いのり>、僕を産んで育ててくれた人々へ<はたらき>、近き人々とあるいは僕自身<くらす>。 no

ふれあいの教育へ(雑記)

「ふれる」あるいは「さわる」について今回を含めて全10回書かせていただきました。その1回目ふれるということの冒頭に引用した栗原彬の文章です。 ふれあいの論理をもちこんだ教育とはどのようなものでしょうか? ふれるということでもその問いを立てさせていただきましたが、その時よりも僕たちはもう少しだけ深く考え、感じることができるようになったかもしれません。 「ふれる」はこれまで見てきたとおり ・人間的なかかわりで ・双方向的 ・主客が分離しておらず 場合によっては ・向こう側から

脱成長社会における教育の新しいかたち

 あなたは教育や仕事、仕事を通して見えてきた社会で違和感につかまったことがありますか?ハッキリとした肯定でもなく、ハッキリとした否定でもなく、今いる場所がいつもいる場所であるのに、なぜか場違いの場所に立ってしまったかのような感覚。直立しているはずなのにフラフラとする、めまいのするような感覚・・  僕はそんな違和感に2010年代の後半につかまりました。僕は学習塾を営んできたのですが、それの失敗しているときではなく、かえって成功しているときでした。周りからは良い塾と言われる、評

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