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純粋性の高い学ぶ場をつくりたい(拙考)

僕は何年もの間、変わりばえしない教育サービスを提供しつづけ、はたしてこのままでいいのだろうか?と疑問を持ちつづけてきました。また、社会人として利益追求をしてきた中で業界的な伸び悩みを年々感じるようになり、さらには社会そのものが伸び悩んでいるんじゃないか?と疑問を持つようになりました。

この記事では前者の問いへの回答をします(後者の問いへの回答はこちら)。

ひとまずの回答として、それはイメージに近いのですが、純粋性の高い学ぶ場をつくりたいと思うようになりました。

雑念や雑想、雑音、視界を遮るものがだんだんと減っていって、やがて少ない状態から一切ない状態へ。それだけに集中し切っている。それ以外は何もない。ただそれだけをしている。まるでほんのわずかだけ未来を感じ取れるような、同じようなことをくり返してきたため、またここに来たかと既視感のあるような瞬間。でも迷いやためらいはなく、それだけをする。やがて集中力が減衰して、徐々に現実へと帰っていく…

ピエール・ブルデューのいう必要性や実用性から離れた世界でつくり出される経験と教育こそ、追求したいものだと考えました。

「美的性向とは、日常的な差し迫った必要を和らげ、実際的な目的を括弧にいれる全般化した能力であり、実際的な機能をもたない慣習行動へむかう恒常的な傾向・適性であって、それゆえ差し迫った必要から解放された世界経験のなかでしか、そして学校での問題練習とか芸術作品の鑑賞のようにそれ自身のうちに目的をもつ活動の実践においてしか、形成されえないものである。」

教育はどうしても、大人の事情が入り込んで来やすいです。時代の趨勢、社会の諸問題、家庭の事情等々。かわいいかわいい子どものために、大人は先回りしてしまいがちです。でも子どもにとってそんなのは知ったこっちゃありません。人間の本質的に備わっている成長したいという根源的な欲求に従い行動、経験していくからです。

僕はそのお手伝いをしたいのだと感じます。もちろん間違った方向へ進もうとしている時もあります。なのでそれは注意した方がいいと思います。その場で思いとどまるのか、やっぱり間違ったことをするのか、しばらく進んで何かを感じ取り考え方向転換するのか、それはその子が決めることです。そしてそれはその子の経験と学びになります。その連続、断続の先に時代の趨勢や社会の諸問題、家庭の事情等に対応できる力を身につけていくのだと思います。未来なんてどっちにしたって分からないじゃないですか。

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