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子と親の共育始め(管見)

僕は常々思っているんですが…(ととのうくん風)
教育っていつも親からですよね
子どもからじゃない

なぜ親からなのかって言うと
親はいつも「未来」を眺めているからなんです
「未来」を心配して教育を受けさせたいって思うんです

でも子どもはそんなことしない
「今」を見つめている
「今」を精いっぱい生きている

僕は親こそ子どもから教育を受けるべきなんじゃないかって思うんです…


おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)
『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 岩波書店


共育は親と子のどちらから始まるのでしょうか

未来志向だったり不安から入る場合は教育同様、親からだと思います。日本経済の斜陽、VUCAと呼ばれる予測不可能な時代、例えば教員不足など学校教育の機能低下..未来を見れば、ほとんどいい話は入ってきません。その不安を払拭するために、子どものもつ能力を高めようとする。家庭教育や民間教育で補強しようとする。前者で共育を考えてみる。あるいは実際にやってみる。

でも子どもはずっと、生まれた時から、今、親を待っている。一緒にいて。一緒に話そう、一緒に遊ぼう、一緒に学ぼうと思っている。もっと一緒にいて。もっと話そう、もっと遊ぼう、もっと学ぼうと言う。でも親は育児だけでなく、家事や仕事やその他もろもろがあって、中々そうもいかない。それは子どももわかっている。だからずっと、待っている。いつも待っている。そうしてちょっとした合間や休みの日、一緒にいられて、話せて良かった、遊べて良かった、学べて良かったと思えるときをもつ。そしてまた、待つ。

親は待たせたくないと心の底では思っている。でも現実には、それまでにしなければならないことがたくさんある。炊事、洗濯、掃除、書類手続、買い物、ゴミ捨て、仕事、介護、つき合い..それらに疲れ切ってしまって、一緒にいられたり話したり遊んだり学べなかったりするときもある。長くつづくこともあるかもしれない。そういう時でも子どもはやっぱり待っている。

子どもはいつも親に向かって開かれている。ねじれてこじれてこんがらがって閉じているように見える時もあるけれども、本当はいつだって開かれている。一緒にいようよ、一緒にしようよ、と心の底では思っている。

共育は、親からも未来に向けて始まるし、子どもはいつだって始まっている。なので難しいことは一切なく、始めようと思った時から、子と親の共育は始まる。

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