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「共に育つ」ってなんだろう(雑記)

以前、教育から共育へでこんなことを記載しました。

家庭のあり方を変える。子どもと共に育つという意味の教育環境を創る。家族の生活形成や人間形成といった視点から、子どもの発達を捉え直さなければならないだろう。

「子どもと共に育つ」ってどんなだろう?という問いが生まれました。
たとえば、うちではあつまれどうぶつの森を父・母・子みんなでやっています。島の住民を誰にしたいか、どんな島にしたいかを話し合いながら、島づくりや博物館の展示物収集を協力してやっています。じゃあ共に育っているかと問えば、う〜ん、なんか違うよな、と感じます。

地域共育であれば「子どもと共に育つ」よりも、僕にとってはわかりやすいです。

地域の概念を変える。人が集まってきたらおのずとふれあいが生まれ、共同性が生まれる、という形成概念。新しいコミュニティを形成し、互助機能を育てていくことが必要。共育のローカル化。

ルソーの『社会契約論』と『エミール』を応用する、自分のために生き、みんなのために生きる<日本の教育へ>のようなイメージを持てるからです。

僕の場合、「子どもと共に育つ」イメージを深めるにあたって、教えることを意識しつづけた20年以上の教育経験や教育≒学校教育のイメージが邪魔になっているのでしょう。「子どもと共に育つ」イメージがしっくりきていません。

そこで、子どもも大人も楽しめる絵本、童話、物語をここ1週間ほど連続で記事にしてみました。なんとなくうっすらと感じたのは、子どもと大人とで鑑賞するという、同じような場所に立って、同じものと向き合うことは「共に育つ」ことにほしい条件の一つだろうということです。

ただ、作品との向き合い方は、子どもと大人とで大きく異なる可能性があるだろうということです。

時間を盗まれて人間の豊かさを失うで渡邊惺仁さんがコメントしてくださったように、子どもから見ると大人の変貌することが怖い、大人から見るとそれは知っていたつもりだったんだけど、改めて見直してみると自分も変貌するリスクを持っているよね、それは注意したいよねと、見え方が異なっています(子どもの心も大人の心も共にもてる渡邊さんは本当に素敵な方です)。

シンプルに考えて、子どもは絵本や童話を読み、新しい世界を知る、世界を広げる体験をしているのだと思います。しかし大人が絵本や童話を読むと、そうではなく、自分の持っている世界をより知り、その一部の修正を図っているように感じます。

足し算か引き算か。子どもは今ある世界に、新しい世界を追加して、より広くする。大人は今すでに持っている世界の一部を磨き、いつの間にかこびりついていた余計なものを取り除く。

もちろんそこまで単純な話ではないのだろうと思いますが、傾向として「共に育つ」ことを考えた場合、同じ場所に立って同じものを見るけれども、子どもは足し算、大人は引き算、と学ぶ対象との向き合い方は異なると考えた方が、筋が良いのではないかな?と感じ、それをここに共有させていただきたいのです。

たとえばこの映画を親子で一緒に観たとき、感想はまるで異なってくると思います。
子どもはこの不思議な世界を取り込んでいくでしょう。
大人は自分のもつ世界とこの不思議な世界との整合性をとろうとするでしょう。
はたして観おえたとき、お互いどう感じたか聞き合ってみると、それぞれ異なることを学んだことに気づくのではないでしょうか。

「共に育つ」ということをもっともっと深く知りたいです。実際にやってみればもっとわかるようになるかもしれません。まだまだ調べていきたいこともあります。僕は共育に教育の未来性を感じています。経済的な豊かさを追求しつづけるよりも、内面的な豊かさを追求し始める方がおもしろそうだなぁって。

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