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ふれあいの教育へ(雑記)
「ふれる」あるいは「さわる」について今回を含めて全10回書かせていただきました。その1回目ふれるということの冒頭に引用した栗原彬の文章です。
教育から経済優先の論理をたたき出す・・・そこにふれあいの論理をもちこむ。・・・生産を至上の価値とするような論理に対して、ふれあいの論理は対立する・・・単純にいまの教育に何かをつけ足すということでは済まなくなってくる。いままでの教育のあり方をすっかり変えていく。そうして、人間的な社会を形成する出発的に立つというイメージをもつ必要がある。
ふれあいの論理をもちこんだ教育とはどのようなものでしょうか?
ふれるということでもその問いを立てさせていただきましたが、その時よりも僕たちはもう少しだけ深く考え、感じることができるようになったかもしれません。
「ふれる」はこれまで見てきたとおり
・人間的なかかわりで
・双方向的
・主客が分離しておらず
場合によっては
・向こう側からも「ふれ」られ
・異なる次元の開くことがあり
・宇宙や「いのち」といった存在などにつながる
・あるいはそのものとなる
この「ふれる」ことのない学びを想定して坂部はこう述べます。
ふれることを欠いた知ることはともすれば単なる知識のための知識に堕する。友達づき合いの根底にも、「歓ばしき学問」の根底にも、何らかの形でふれること、ふれあうことが生きていなければならない。
学びの根底に「ふれる」ことをして
ピタゴラス派以来受けつがれてきたリベラル・アートの伝統の今日における新たな復興、さまざまに孤立した前線で行きづまりの様相をみせている諸学のあらためて「ふれ合い」活性化と「歓ばしき学問」への再聚会という形をとってあらわれることになるのではあるまいか。
歓びにつながる。
「ふれ」て、「ふれ」あう教育とは何か。
人間的で、双方向的で、主客が分離しておらず、ときに向こう側からも「ふれ」られ、異なる次元につながり、宇宙や「いのち」といった存在につながるあるいはそのものになる。
そんな教育を共育と言ってよいのではないか。
共育をめざすことが望ましい時代に入っているのではないか。
「さわる」教育もあっていい。
「ふれる」教育もあっていい。
これからは少しずつ「ふれ」て、「ふれ」あうような教育、つまり共育の時間を空間を増やしていくことが、望まれているのではないでしょうか。
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